| (ローマ10:9〜13) 海の衝突事故 今はどうかわからないが、筆者が車の運転免許を取るために自動車学校に通っていた頃、路上で教官にさかんに言われたことは、“呼称運転”ということだった。交差点にさしかかり信号が赤なら、“赤、止まれ”と自分の口で唱えて停止するのだ。 最近は年のせいか、忘れることが多くなった。家を出て道の途中で、ガス栓を閉め忘れたのではないかとどうにも気になり、戻ってみると、ガス栓はちゃんと閉めてあったなんてことは、よくあることだ。だが、ガス栓を閉めるときに、自分の口で“ガス栓閉めた”と唱えておくと、めったに忘れることはない。それでも忘れるなら、かなり重症? 最近、海上での船舶の衝突事故が増えている。千葉県沖でのイージス艦と漁船との衝突はまだ記憶に新しい。先週は明石海峡で三隻の船が衝突して二人の船員が亡くなった。衝突の原因として大きな問題になっていることは、いずれの場合でも、事故直前まで、船を自動操舵にしていたことだ。コンピュータまかせの油断が原因と非難されても仕方ない。文明の利器の盲点は、本来舵を握っていなけれぱならない人間が不在となり、予想外の事態に対応できないことだ。 人生の舵取り。それはコンピュータ任せや他人まかせにすることはできない。あなたの人生の航海の舵取りはあなた自身だ。信仰の世界においても、心で信じているだけでなく、その信じるところを告白することによって、信仰が観念的にならず、実際の生活の力となる。キリスト教信仰は、主体的な告白的な性格をもっている。 口で告白して 使徒パウロは、人はイエスを救い主と信じるなら義と認められ、「口で告白して救われる」と言っている。「義と認められる」ということは、神の側における客観的出来事である。私がイエスを信じた瞬間、神は私を義と認めてくださる。それが、私の主体的な救いの体験となるためには、「口で告白する」ことが重要だ。「告白する」という言葉は原語的な意味からすると、「同じことを復唱する」という意味である。それは聖書に示されている福音の宣言を自分の口で復唱することである。「イエスは主(神、救い主)です。」と口で唱える。「主よ!」と口で唱えることである。“主よ、あなたは私の罪のために十字架にかかり、三日目によみがえってくださいました。信じます。”と口で唱えることである。心の中でそう信じているところを、口に言い表すのである。 告白的信仰は平穏無事なときは容易である。しかし困難や迫害が予測される状況では、告白は容易ではない。迫害下の初代教会においては、信者たちが信仰を告白することは命がけのことであった。 使徒ペテロはイエスが捕えられたとき、イエスヘの信仰を告白できず「私はあの人を知らない」(ルカ22:57)と否認してしまった。イエスはペテロを見つめた。イエスの眼差しにたまらなくなったペテロは外に出て「激しく泣いた」。しかし、そのような人間的な弱さ、ふいがいなさも、主は受けとめ、あわれんで、強さに変えてくださった。『使徒行伝』におけるペテロの大胆な告白的信仰を見よ。 《黙想と適用》 あなたは信仰を告白して生活していますか。それとも心の中だけの信仰ですか。 |