2月24日「石の心を肉の心へ」(エゼキエル36:21〜28)
(エゼキエル36:21〜28抜粋)

頑迷固陋

 もう二十年近くも前になろうか、故人となられた大衆伝遺者本田弘慈師が浜松の伝道会に来られて伝道説教をされ、そのとき罪にっいてのお話をされた。日本人には、聖書で言う「罪」ということがなかなかわからない。罪というと、殺人とか盗みといった犯罪のことだと思い、自分はそんな悪いことはしていないと考えてしまう。そこで、本田師は、お年寄りたちに“罪とは頑固なことですよ”'とお話ししたところ、“あ〜頑固ですか。わかりました”と、やっとわかってもらえたという。
 頑固という言葉は、融通のきかない頑固オヤジなどをイメージさせるが、頑固一徹も時には大切であろう。ダメなものはダメと言い通す父親の教育上の役割はそれなりに重要だ。しかし、一般的な意味では「頑剛」は「頑迷固陋(がんめいころう)」すなわち・古いことに固執して、事の真相が見えず、かたくなになっている心や態度を意味する。聖書では「神の民」として選ばれたイスラエルが「実にうなじのこわい民だ」(申命記9:13他)としばしば呼ばれている。旧約聖書に記されているイスラエル民族の歴史を読めぱ、まさに「頑迷固陋」の歴史であったと言っても決して言い過ぎではない。まことの神から離れ、自分たちのために異国の神々(偶像)を造り拝んで、不義・不道徳を重ね、神の懲罰を受けて一時は悔い改めても、再び罪に陥り「頑迷固陋」にそれから離れようとせず、かえって罪を責める神の預言者たちを迫害する。それがイスラエルの歴史であった。その結果ついに、イスラエルはアッシリヤやバビロンによって滅ぼされ、民は虜囚となり、諸国の辱めを受けることになったのである。

聖なる名を惜しむ

 民の頑迷固随と辱めにより、神の聖なる名が諸国の間で汚された。そこで、神はご自身の聖なる名「惜しんで」、ご白身の聖なる名のために、イスラエルの回復のわざに立ち上がられるのである。神は捕囚七十年を通して、イスラエルをへりくだらせ、再びイスラエルを祖国に帰還させ、偶像の汚れから清め、民から「石の心」(頑迷固陋)を取り除き、「新しい心」「新しい霊」「肉の心」を与えるのである。さらに神の霊を授け、民がまごころから神と神のいましめを愛し、それを行なうことができるようにされるのである。何とすばらしい回復のわざではないか。イスラエルが自分の力によって更正するのではない。神が、聖なる御名のために、ご主権とご恩寵によって、回復と刷新のわざを行なわれるのである。この回復と刷新の約束は、イエス・キリストを通して、今日の私たちにも成就する。

《黙想と適用》
「石の心」はどのように取り除かれますか。