9月21日「何を信じるか」 創世記15:1〜6
                (創世記15:5,6)

信頼関係

 社会というものは人間相互の信頼関係の上に成り立っている。夫婦の間の信頼関係、親子の信頼関係、友人との信頼関係、取引先との信頼関係等々がなけれぱ、社会は成り立たない。どんな法律を作っても、それを守る人聞相互の信頼がなければ、それは効力を発しない。例えば、赤信号は「止まれ」の合図である。これをみなが守るという信頼関係があるから、青信号の側では車を通常の速度で走らせ、安心して交差点を通過する事ができる。もし赤信号をみなが守らない(あるいは多分守らない人がいるだろう)と疑ったら、安心して渡れなくなる。
 このように「信じる」ということは、日常生活に欠かせない。だが、ひとたび信頼が裏切られると、信じられなくなる。夫婦の間でも一度でもどちらかが浮気や不倫などすれば、夫婦の信頼関係に傷がつき、それをいやし、信頼を回復させるのは容易なことではない。
 人は人間関係に傷つくと、自分しか信じられなくなる。自分を信じることができれぱ、まだ幸いであろう。多くの場合自分までも信じられなくなる。なぜなら、だれよりも自分自身が一番自分の弱さを知っているからである。自信が持てない。少しの問題にも心が揺らぎ、苦しむ。

信仰の父

 「信じる」ということのすばらしい模範が旧約聖書に出てくる、信仰の父アブラハムの物語である。アブラハムはユダヤ教徒からもイスラム教徒からも信仰の父と仰がれている。もちろんキリスト教徒にとっても「信仰の父」である。
 アブラハムのことは、旧約聖書の「創世記」に詳しく記されている。その12章からアブラハム物語が始まる。1〜11章はその物語の序曲、壮大な人類史である。天地創造、失楽園、ノアの洪水、バベルの塔など実に興味は尽きない。
 きょう取り上げている創世記15章は、アブラハムの信仰が「義と認められた」(神との正しい関係をもたらした)という箇所である。神はアブラハムに祝福を約束し、子孫の繁栄を約束されたが、アブラハムには老齢になってもまだ子どもがなかった。妻のサライも老齢に達していた。もはや人間的判断では、子をもうけることは「望み得ないこと」(ローマ4:18)であった。しかし神は彼を屋外に連れ出し、天の星を仰がせ「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたのである。
 アブラハムはその神を信じた。神の約束を信じた。「神にはその約束されたことを成就するカがあることを堅く信じた」(ローマ4:21)のである。神が父親のように善意に満ち約束に誠実であることを心底から信じ、神に信頼したのである。神はそれを義と認められた。普通われわれが義という場合、正しい言動、行ない、功徳などを意味する。そして義となるために努カや修練を重ねる。しかしそれは人間の考えた義である。神の義は違う。何の功績もない罪人を、ただ神と神の約束を信じる信仰のゆえに義として.くださるのが「神の義」である。
 人類に対する神の救いの約束はすでに成就した。神の御子キリストはすでに十字架にかかり罪の代価を支払った。この方を信じるなら、あなたも義とされるのである。

黙想と適用

・マタイ20:1〜16に記されている「ぶどう園の労働者のたとえ」は何を教えていますか。話し合ってみましょう。