
2008年 3月 9日発行・白山会報第176号より 日本基督教団 小石川白山教会 古屋博規牧師 「誘惑に陥らないように」
神は人間のために、エデンの園を設けて、人間の住むべき理想の世界を創って下さいました。 そして、神は、誘惑を受けやすい人間がどういう心構えで生きるか注意深く見守っています。 神に代わって園を管理するものとして人間に求められていることは、何よりも忠実さです。
なお、今年一月、細井牧師の就任式で皆さんに渡した誓約の書面にもその意図が示されています。ちなみに、これは田園調布教会(福音教会)で田村博先生が用いておられる式文です。 神の世界の一員として、人が生かされていることを認め、耕し、守るという二つの役割が示されます。
耕すという言葉の語源は、これはカルチャー(文化)にも通じることですが、働く、奉仕する、整理するという意味と、開発するということです。 つまり、神は、人間に、神の意思に沿ってもっともよく開発してゆくという積極的な役割と、守る、保存するという消極的な役割の両方を託されました。
働くということは、神が人間に明示された召命で、そこに人間の生きがいがあります。私たちは、働くこととイコール食べるためと考えがちですが、神がエデンの園に人間をおかれたのは、人間が食べるという目的によるものではありません。 神は最初、人間に、園を守る役割を与えました。すべてを良しとされた、神の配慮の中にあることを大切に思うことが必要です。
「善悪を知る木からは取って食べるな・・・食べるときっと死ぬであろう」
という御言葉には、単純に食べる、食べないということよりも、全生活の象徴、生きる人間への洞察が示されています。 神は、最初の人、アダムを造られ、息を吹き込まれ、生きた者とされます。
ちなみに、エデンとは平原・平野という意味と喜び、楽しみという意味があります。これは、人間が罪を犯す前に供えられた場所で、ここで人は罪を知らないで生きています。 イエス・キリストが、主の祈りで、 「日用の糧を今日も与え給え」 と祈るのは、喜び、楽しみを神にのみ求めて生きる決意を示すものです。決してパンだけの問題ではありません。 さて、創世記に戻ると、神は、人間にたった一つの禁止、即ち、善悪を知る木から取って食べるな、と命ぜられました。 善悪を知る木とは、神のようになろうとする試みのことです。人が限度を超えて神の様になろうとする試みに対しても、神の意思にだけは絶対に従えと命じます。 ところが、狡猾なヘビは、女を誘惑して
「園のどの木からも食べるなと本当に言われましたか?」
と聞きます。 すると、女は、神の命令に「触れるな」(とも言われた)という言葉を付け加えます。 ヘビは、「食べなさい。」とは言わないで、「食べると神の様になる、さあどうするか?」と誘惑するのです。 誘惑するということは不満を抱かせる事です。人は、自分を惨めに思うと弱さをもち、神の世界にはかなさを感じ、その祝福に不満を感じてしまうのです。そして最終的には、神と人との関係に分裂をきたすことになってしまいます。愛には恐れがないはずが、逆に恐れを持ちます。(Tヨハネ4・18)
イギリスの小説家C・S・ルイスは、「悪魔の手紙」という作品の中で、悪魔は私たちの人生の現在性を巧妙に忘れさせるたえに、未来をちょっと語りながら、現在を捨てさせ、神とあることを忘れさせ、ほころびをもたらすと書いています。
人間の欲の目からは、善悪を知る木の実は、「食べるによく、見て美しく、目に好ましい」と三拍子そろいます。前出のヨハネの手紙も「肉の欲、目の欲、持ちものの誇り」と三大欲を示します。 「共にいた夫に与えて共に食べた」(第六節)
今度は、妻が、夫を誘惑したことにより問題がおきたのです。 悪の上に立てられた平和は決して長続きしない。 イエスがサタンから誘惑されたとき、断固として退けたことを思い出します。 誘惑を退けられる主イエスに従ってまいりましょう。![]()