2008年 1月20日発行・白山会報第175号より

日本基督教団 小石川白山教会 古屋博規牧師

「教師でありながら」

礼拝にて、細井茂徳伝道師就任式を、東京教区議長代理古屋博規牧師司式により行いました。
一人の教師がまた魂への配慮に生きるため教会に遣わされました。魂への配慮に生きる教会となるために御言葉を伝えるものとされます。 これを生かす力の源泉はどこにあるかを尋ねながら、学んでまいりたいと思います。

チェコのヤン・スカチェルは、
「慰めにとって、とても重く大切なことは値打ちある貨幣のような言葉を見出すこと、
値打ちの下がった通貨ではない。低く語り始められ、身を隠すことを知っている。静けさのかげに。世の騒音は疲れ果てて、瀕死の状態でしかない。」
と、一貫して瀕死の状態にありながら、慰めが本来何を語っていたかを新しく捉え直すことが大切だといっています。

本日の聖書箇所の中にも、一人の教師が慰めを求めています。
ため息しか響いて来ない、慰めを必要としている一人のために、自ら進んで静かにイエスに向き合う人。教師ニコデモです。 イエスは、彼に
「神の国に入るためには新しく生まれなさい。」
と呼びかけられます。彼はすかさず
「そんなことができますか。」
と問いかけます。

彼の学びの目的は、神の国に入ることと、永遠に生きることです。
真面目な指導者であり殻のかたいニコデモは、イエスは神が使わした教師としてはっきりと認めながらも、徴を求め、自らを変えようとはしません。
その姿に、イエスは生まれ変わるということを求めます。
生まれ変わるということは自由な意思の選択肢ではなく、人の力を超えて二度と繰り返さない出発点に立つ事です。

ニコデモは、それまで、生まれるということを、生から死までの連続変化の中で考えていました。
それに比べて、イエスの教えは、人間の行き方考え方の根本的な変革の必要性を説きます。
しかし、ニコデモは生まれたままの人間がどうして変えられるなかを問い直すばかりで、理解しません。 彼は、知識を重ね教養を積んできたのですが、古さを飾り付けているだけなのです。
新しく生まれるのは、今までも人間の生き方に何かをプラスすることでよいのではなく、方向転換することです。
この変化は量的でなく質的な変化です。生き方の目標が180度変わるのです。肉からではなく、霊から生まれる生き方です。
生まれながらの人は自分を求めます。しかし、ニコデモは、主イエスに、水と霊から生まれることを示されました。

ここで、アマゾン川の蟻の話をしたいと思います。
アマゾン川は雨季になると大雨で大洪水を起こします。この流域の蟻はこの洪水に際して犠牲的に協力するといわれます。
洪水の濁流で、蟻の巣が壊されると3万匹の蟻がラグビーボールのように固まって水に流されながら、半分は上に半分は下になりながら呼吸します。 そして何キロも流されて安全な土地に着くのです。わがままを通しては自分さえよければという考えではその自分にまでも滅んでしまいます。 互いに犠牲を払う中で互いに生きることができるのです。自分がしてほいくないことは他の人にもしない。そういう精神ことが真に人を生かし、また自分も行かされるのです。

教師であるニコデモに示された主イエスの生き方はまさに悲惨さを示す現代に生きる私たちへの新しい呼びかけです。
主イエスは待っておられます。救い主は貧しいものの中に座って私たちに代わって孤独の中にいます。
誰にも理解されない苦痛を引き受け、ひっそりとした井戸のほとりで出会ってくださいます。
「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
(ルカ二章10〜11節)

この御言葉は天使が野宿している羊飼いに伝えられた言葉です。
今日は、その大元になったマリアに語りかけられた神の声が、一体どのようにマリアを動かし、神を讃美するようになったかを讃美歌21の271番と重ねて学んでみたいと思います。

その一節は、
「喜びは胸に満ち溢れる、あまりに大きいこの恵みよ、神のひとり子がこの世に生まれて、わたしの兄弟をなられたから。」
とあります。
イエス様との恵み深い関係が、踊るような喜びを味あわせます。
神様は、私たちが悲しみや憂いに沈むときにも決して見過ごされることはなさらない。イエス様は、もともと神様の栄光の右の座におられます。

しかし、神様のご計画は、わたしたちの救い主となられるひとり子を一番低いところに、人として置かれるということでした。では、「低いところ」とはどんなところでしょう。

「クリスマスのおもいでは何ですか?」
とラジオである青年に聞いていました。
「思い出なんて何もありません。」と青年はあざ笑うように短く答えます。
現代のクリスマスの活気に満ちた、エネルギーにあふれる歌声も一人の孤独な青年を動かすことすら出来ないのです。
何かと気ぜわしい12月を過ごすわたしたち、その慌しさの中にも「低いところ」があるといえるでしょう。

しかし、2000年前の、最初のそして本当の、クリスマスは目的を失った者たちも、華やかさに酔いしれている者たちも共に突き動かすほどの衝撃的な出来事となりました。
それは力ある者を叱り、虐げられている者たちをを解放して行く、そして彼らに喜びを産み出す出来事なのです。

ローマ帝国の「最初の住民登録」(ルカ二・二)が行われ、民全体が登録のために自分の街に向かっていたその時、野宿で夜番の羊飼いたちには住民登録の声がかからず、彼らはベツレヘム郊外の野に打ち捨てられていました。
民の一人と数えられず、疎外されていた彼らには、寂しさ、悲しさが身にしみたことでしょう。

現代の私たちも、丁度ラジオ・インタビューに答えていた青年のように、疎外感を感じることがあります。
仲間はずれにされたり、軽んじられたり、後回しにされたりしたとき、人に遅れを取ったり、劣っているように感じられるとき、愛されていない嫌われていると感じるとき、失敗したり、自分で自分を受け入れることが出来ないとき、そして、神様が遠く感じられる時。
しかし、神様は御使いを通して、疎外されていたはずの者たちに真っ先にすばらしい喜びの知らせを語って下さいました。

さて、主が来られることを知らされたマリアをのなしたことは一体何であったでしょう。
それは主イエスについて語ることです。
疎外され軽んじられていた生活の悲惨の中にあっても、それはとても大きな喜びです。そして、それは自分に起こった出来事を思い巡らすことにもつながります。

マリアが実際の行動に現したのは、自ら人を訪ねることです。
丘の多いユダヤの地で、しかも身重の体で、四日の道のりをかけて旅します。マリアはこれに続いて、讃歌を現します。
マリアは最も信じがたい御告げに接しながら、それを受け入れ世界で最も美しいといわれる讃美をします。
マリアは自分にとって、これからどうなるのか考えることよりも、真っ先に神様のなさる世界に自らを委ねていることがわかります。

神様が、私たちの人生を、仮に今どんな状態にあったとしても、切り開いてくださることを信じましょう。
このクリスマスからまた新たな思いで、イエス様に向き合い、新しきと年を迎えてまいりましょう。