2007年5月20日発行・白山会報第171号より

日本基督教団 小石川白山教会 古屋博規牧師

「声を聞き分ける羊」

ヨハネ福音書は、10章1〜39節まで良い羊飼いについて語っています。羊飼いはクリスマスだけでなく、イースターをはさんだシーズンにも登場し、聖書の中では、一貫して誰からも見捨てられた遊牧民の姿で登場します。 しかし、この立場がまさにイエス・キリストが、人として民とともに歩む姿勢を示しています。

(一)良い羊飼いについて一〜五節で語られ、七〜一〇節までは私は門として語り、そして一一節から本格的に良い羊飼いと一四節に重ねています。ヨハネの福音書では、羊飼いであるイエスは、ご自分を門と言い、羊はこの門を通り世話されると紹介します。良い羊飼いは群れを養い、憩わせ、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、公平をもって彼らを養います。

それを可能にしているのは、イエスが良き羊飼いとして、羊を良く知り羊のために命を捨てるからです。
命を捨てる、即ち死は、聖書では罪に対する裁きだけでない、永遠の命にいたる通過点です。「死」の積極的な意味が永遠の命です。

「わたしにとっては、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ一章二一節)

良い羊飼いは羊のために命を捨て、羊飼いであい雇われ人はオオカミが来ると羊を見捨てて逃げます。
これは人間の心理に共通して、大多数の人はいつも揺れ動くことを意味します。大衆の論理で、気持ちも変わりやすく感情で動くいい加減さを持っています。 雇い人とは、卑しい利益のためには出来ても、無償の愛にはほど遠いのです。 この言葉は、卑しい人間の業から離れなさい、でないと永遠の命に至らないと教えます。

主イエスは、私たちのために真剣に関わって下さいます。いい加減な時ほど、怪我をしてしまうことも多いのですが、命がけといえるほどにの真剣な取組みは、そのいい加減さを取り除き、人の御言葉を集中させます。

(二)正に、今年の年間標語《み言葉と共に生きる》に目を凝らして生きましょう。 羊を良く知っている羊飼いは、私たち全てをご存知です。 パレスチナの一つの井戸のかたわらで三、四人の羊飼いが羊に水を飲ませに井戸端に来ました、 一つの井戸から汲んだ水を羊は飲みます。 三つ、四つの羊の群れがごちゃ混ぜになって飲むのですが、羊は羊飼いの合図で、それぞれもとの群れに戻ります、羊も羊飼いも声に聞き従うことをしてて間違わないで分かれています。 羊は群れることで安心を得る性格があります。周りに気がつかないことが多く、時に草を食べながら迷ってしまわないように主人はいつも見回り声をかけます。

(三)主は羊を一つの群れとして、この囲いにいない他の羊に向かっても一つにしようとします。教会の使命もこれに似ています。
自分の目先の事だけでなく、主が語りかける声を聞き分けるのです。

主イエスは、神様を羊飼いとし、ご自分を羊に譬えながら、神の声のみを大切にして、決してそれ以外の声に聞かない姿勢を常に私たちに示し、命を捨ててでも、私たちの身を守ってくださいます。

迷いやすく、群れていることで流されやすい私たち。
最も小さい者の一人を助けない、この囲いの他にいる人々に関して、無関心に振舞っていないでしょうか。
主イエスは、神の御声に聞き従い、近視眼的になっている私たちを、十字架の死によって、呼びかけ守ってくださいます。