
ルカ24章36b−48節 『新しい原点に立って』
古屋博規牧師
復活については、日本では、ともすればまるで霊媒師が死んでいる者の霊を呼び寄せて行う民間信仰かと思われるかもしれませんが、もちろんそうではありません。 主イェスは
「婦人達よ・・なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」
と呼びかけ、過去の記憶の中に貼り付けようとすることを否定します。
復活の主は、過去の私やあなたが求めているように固定されてはいません。
主はガリラヤで、召された弟子達が、イェスと共に神の国の福音を伝え巡り歩いた宣教の原点に、帰りなさいと呼びかけています。 君たちは、信仰の原点に立つなら、復活の主にお会いできると聖書は呼び戻して下さいます。「讃美歌21」334に、 「甦りの日にエマオの道でとまどいおそれてイェスに気づかず、何を悩むかと 見知らぬ人が問いかけてくれる。イェスと気づかず。聖書説き明かす 言葉を聴いて 心が燃えたよ イェスと気づかず。
一日の終わりに 共に泊まろうと 無理に引き留めた イェスと気づかず。客が食卓でパンをとって裂くと悲しみ消え去り、イェスと気づいた。心を燃やして 現場に帰り 主は甦ったと イェスを伝えよ。」 と歌いかけている様に伝えていきましょう。 甦りの主イェスは今、私たちの生活をどの様に変化させるのでしょう。ひっくりかえしたり、取り除いたりすることではなく、私たちに新しい原点を示され、永遠の使命を授けて下さったのです。 私たちに、いのちを約束し、自然小間までは罪と死の虜になっているところから、再び弟子の前に出て、滅びの中にある私たちに、死を乗り越えて、新しく生きることにうろたえている眼差しをしている弟子達に、 「あなた方に平和があるように」
と示して下さいました。主は手と足を見せて、触りなさい、よく見なさいとも言われました。
信仰は、主の勝利であっても、私たちの生き方が勝のではありません。信じてもらえない悲しい現実を、主イェスは受けとめて下さいます。 まだ信じられない弟子達のために、主イェスは続いて焼き魚を求められ、一切れ差し出されるとそれを弟子達のいる現場で、共に食べました。 「あり得るかどうかという議論を、いくら重ねても、復活が解ることは、主イェスの真実と、主を伝えた人々の真実を信じられるかどうかにかかる。」
と作家椎名麟三は、何度も聖書を放り投げては、気になって読み始め、いままであり得ないことと
「自分が作り上げていた必然性の壁が音を立てて崩れ落ちた。そして、自分が切り捨てていた出来事の向こう側を見た。」
と述懐しています。
私たちに示して下さった主イェスの十字架の原点に立って、復活の主と共に歩みましょう。
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