2009年 4月19日礼拝説教要旨
『良きおとずれの初め』
細井茂徳牧師
マルコによる福音書は、たいへん印象的な言葉で書き出しています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。「初め」という言葉には、二つの意味があろうかと思います。一つは、ある物事の大本、根元のことであり、もう一つは始まりを意味する、最初という意味とであります。「イエス・キリストの福音」にも初めがあるということは、それはいずれの意味においてにせよ、「福音」がこの時間と空間の中で起こったということです。私どもの日常の生活からかけ離れたところで起こっている出来事ではなく、今、この場所で生きている私どもの只中で起こっているということです。しかも、マルコはこの「福音の初め」を旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引用することで、キリスト以前を生きたイスラエルの人々もこの福音に含まれているということを言い表しているのです。そして、この神の民イスラエルと今日の私どもキリスト者とを関連づけるようにして、「荒れ野」という言葉を強調づけているのです。
洗礼者ヨハネが立った「荒れ野」、そこは私どもキリスト者にとって、今いるこの世界の事に他なりません。今生きているこの世界の只中にこそ、私どもにとっての“荒れ野”があると言ってよいのです。「荒れ野」、そこは畑も水も牧草もないところです。そこでは自分の力や知恵は何の力にもならないのです。自分の無力さをかみしめ、思い知るほかない場所であります。そうした“荒れ野”では、私どもは神に頼る以外に生きる術がないのです。しかし、聖書は、実はそこでこそ私たちは神と真実に出会わされていくのだ、と言うのです。洗礼者ヨハネは、表面上の出会いではなく、真実に神と出会わせるために人々を荒れ野に立たせて、神へと導いていこうとしたのでありました。生涯にわたって神へと向かっていく悔い改め、つまり真実に神を求め、神へと一筋に向かっていく真実な回心を人々にもたらすために、ヨハネは“荒れ野からの声”として立てられたのです。真実の神との出会いは、この荒れ野から出発していくものだったからです。そしてまた、この荒れ野からこそ、神の救いの働きが始められていくためでありました。
世界の只中において、人々を生涯にわたって神様へと向かわせていく回心をもたらす使命に生きたヨハネ、この人の姿は、まさしく私どもの教会の姿でもあるのだと思います。“荒れ野”に立たされ、真の救い主イエス・キリストと出会い、自らの罪を悔い改めてこのお方を自分自身の心の内にお迎えする。そして、ひとたび主をお迎えしたならば、今度は、自身が荒れ野で叫ぶ声として、神のみわざに用いられる道具となって、主イエスの道備えをする。主の道を備えるために労するようになる。それが私どもの教会の務めなのであります。