2009年 4月12日礼拝説教要旨

Tコリント15章1〜11節

『甦りの力』
 古屋博規牧師



古屋博規先生

 イースターおめでとうございます。
白山教会の正面左には 週報の絵のような棕櫚の木が植えられています。この教会の出入り口は正に主の復活のお墓の入り口の様です。
実は、上智大学のイグナチオ教会の広い礼拝堂の地下には、信者のお墓があります。以前の白山教会の会堂にも講壇の後ろに納骨室があった時代がありました。
昨年、神学校の研修会でお訪ねした千葉県の「社会福祉法人ペデスダ奉仕女母の家」が運営する婦人救護施設の「かにた婦人の村」の会堂の地下にも歴代の信仰者の骨壺が安置されていました。

 イースターは、教会が一番早く祝った祝日です。クリスマスではありません。
 使徒パウロはこの15章で、死んだクリスチャンの終わりの日における復活という教理を扱っていて、ただ一つの本格的な教理論としています。  まず、1, 2節はグノーリゾー(知らせるから来ています。)「知らせる」という大事なことを宣言すると伝えます。  続いて3〜8節の信仰告白である十字架の死・葬られ・三日目に復活し、ケパに、12弟子に現れたという、最も大事なことを伝えます。
そこにある4つの項目は、
  • 1罪のために死んだこと
  • 2葬られたこと 
  • 3聖書に書いてある通り三日目に甦ったこと 
  • 4ケパと十二弟子に現れたこと とイス・キリストは死んで復活したことから発展しています。

     甦りとは過去の出来事でなく、今もイエスが生きておられるという現実です。
    甦りは、黄泉から帰ったことですが、原文は起こされているという受動態です。誰かによってか、と言えば神によって起こされたのです。

     復活を科学的事件のように証明して間違いを正そうとするべきではありません。
    主イェスの復活という教理は、今生きておられる主イェスを主として迎えるという、人格の問題として取り上げるべきものです。
    復活は神が行われた神の行為で、誰一人の目撃者もいない科学の外にある信仰の問題であります。
    三日目に墓に行ったら既に石が転がしてあり、主の使いからここにはおられない、かねて約束したようにガリラヤでお会いする。と福音書は記しています。
    この一年のガリラヤの道で十字架の主は私たちに出会って下さいます。