
イザヤ50章4〜9節、マルコ11章7〜11節 『背中をまかせる。』
古屋博規牧師
今日は棕櫚の主日です。マルコ福音書は、子ロバのつないである(拘束する束縛する)ところから、ほどいて(自由にする、解放する)、つまり「召命と派遣の物語」として紹介しています。 この名前は、主がエルサレムに入られた時に、人々が、棕櫚の枝で歓呼の(ヘブライ語で「今、救いたまえ万歳」を意味する)ホサナと声をあげたことから来ています。
多くの人が自分の服を道に敷き他の人は野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いたと書いています。
主イエスがエルサレム入場をした光景は、一見、当時のローマ帝国が強力な軍事力で周辺の人々を侵略し勝利を収めた将軍や兵士達が意気揚々と凱旋した様子と重なります。 しかし、主イエスをそのような「王」とせず、子ロバの入場となるよう、二人の弟子を遣いに出し、子ロバを連れて来ました。遣いに出すとは、いいかえれば派遣するということです。 主イエスが12弟子を集めて、彼らを使徒として派遣して悪霊を追いだし、病人を癒す権能を与えた様に、棕櫚の主日には子ロバが連れてくるための使徒として派遣されました。
「どうしてそんなことを」
と聞かれたら
「主がお入り用なのです。すぐに返します。」
と答えなさいと、主イエスは弟子達に続いてロバを十字架の派遣に用いようとしています。
十字架にて殺されるなど考えず、エルサレムの人々はただ勝利の王様として迎えているのですが、神は主イェスを十字架に派遣します。 子ロバとは言え、これから農作業に用いる大切な家畜で、財産であったはずが、この後、多くの人は自分の服を敷き、他の人々は野原から葉の着いた枝を切って敷いて、前を行く人、後ろにいる人も、ホサナと十字架の主を誉め称えます。 神殿に入場後、その日の夕方ベタニアへ行ったと示されます。ベタニアは、悩む者の家・貧しい者の家を意味する名前です。 エルサレムから見れば、阻害され、排除され、追いやられていた病気や障害を負う人々、寄留の外国人、不浄とされていた仕事に従事していた人々などが多く住んでいたと言われています。 人間の尊厳が軽んじられ、傷つけられ、貧しさを強いられていたであろうベタニアの人々に遣わされることの意味が示されています。 わざわざベタニアから、子ロバを連れてこさせたということにより、主イェスは、まだ「誰も乗ったことのない子ロバ」がつながれていたもの、即ち、ベタニアの人々の鎖を解き放つため、私たちに背中をまかせる子ロバとなって下さったのです。私たちの涙と憤りを携えて、招かれた行為の中に、徹底的に神に背中をまかせる主イェスの姿が象徴されています。 人間の尊厳の回復を告げ、人々を苦しめている構造を批判し、時には根底からゆさぶり、今一度、福音が生きて働く場所に私たちを立たせようとして下さいます。
![]()