2009年 2月22日礼拝説教要旨

U列王2:1〜12、 Uコリント4:2〜6

『生きて働く神』
 古屋博規牧師



古屋博規先生

 先日、大勢の方が、文京区役所シビックセンターの25階から富士山にカメラを向けていました。
日没直前、富士山の後ろに隠れる太陽から、一ヶ所だけ光るダイヤモンドリングを求めてシャッターを切るのです。
この富士山のように、静かに後ろから自分を暗くして相手を光らせるというなにげなさに、純粋さを感じます。

 私たちは、輝きを信仰によってあたえられるのであって、決して自分自身で輝くのではありません。後ろから主イェス・キリストが光をあててくださらなければ、仮に人間味はあったとしても、信仰とまでは至りません。
ジャーナリストの筑紫哲也さんは、ご自分は信者ではありませんでしたが、一人の宣教師との出会いに、そういう無言の風圧を感じ取り、
「この人の生き方には何を言うのではないが、この人の現しているものには抗しがたいところがあった。」
と当教会の先達クレッカー宣教師と共に歩んだフレンド学園の宣教師エスター・B・ローズ先生を紹介しています。彼女は無言のうちにも風格を体現していました。

 Uコリントで使徒パウロは、 自分たちがどう相手に知られるかではなく「良心にゆだねる」と決意しています。キリスト教が伝道を考える時、聖書を抜きにして自分を吹聴したり、逆に自分を切り離したりして語ることは、統一教会など新興宗教が利用していることですが、避けなければなりません。むしろ、それに抗して、神の前に良心をゆだねて生きる事を大切にしたいと思います。

良心という言葉は、卑劣で隠れた行いを捨てることを意味します。「卑劣で隠れた」とは、福音の純粋さを忘れて、余計に飾り付け、盛りつける事です。私たちに求められているのは、福音に厚化粧することではなく、単純であることです。 例えば、人前で証をするというと、何か緊張して自分を立派に見せようとすると、他人の前で福音を恥ずかしく思います。「今は教会に行っていません!」とまで、自分に言い訳をしてしまうのです。

伝道の働きは、相手がどう思おうが、語るべき事を語る事です。4章2節に「神のことばを曲げず」とありますが、聖書に無い事を語る事は神の言葉を曲げる事です。同じく「真理を明らかにする」とあるように、証を通じて福音というものがどういうものであるかはっきりさせましょう。

 列王記のエリシャに10節
「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」
エリヤは語りかけます。既に召命を得てエリヤに仕えていたエリシャは、エリヤのもとで直接に主の働きを見ています。後継者になると予見していたエリシャに、不安がつきまといます。見えなくなったらどうしようです。 

 私たちは、見えないけれどもいつも離れないで生きて働いてくださる神、十字架の主の前にどんなわざをささげることが出来るでしょうか。
私は、太陽を後ろに抱える富士山をじっと見続けるカメラマンの気持ちが分かるような気がします。信仰の立ち位置を動かしてはいけないのです。状況がどんなに変わっても。

先達の宣教師、牧師、信者は、この聖書の教えに聴き従いました。
自分の栄光が世を照らすのでないことを覚えつつ、主の輝きが一層増すように、疑いを晴らしてくださる十字架の主にゆだねて歩みましょう。