2009年 1月18日礼拝説教要旨

サムエル記上 第3章1〜10節

『主よ、お話下さい。』
 古屋博規牧師



古屋博規先生

宮城学院の院長である深谷松男先生は、今年の年初の挨拶で、この聖書箇所を学校の記念として言及しておられます。 同学院の歴史を繙いてみますと、1902年に校舎は全焼し、また後に宮城県から聖書の授業を外すように強要されるなど、宣教の建学の精神であるキリスト教が社会の無理解と国家権力による抑圧が加えられたことがわかります。
それだけでなく、権力への迎合、殊に内部からの迎合により外国人校長の排斥に走るなど、無自覚に押し流されていた時代でもありましたが、そんな時代においても、上からの知恵、神を畏れることに基づく知恵が必要との見地から、教育理念としてスクールモットーが示されました。

16世紀半ばに、フランシスコ・ザビエルが来日して初めてキリスト教を日本人に伝えた頃、聖書の愛は「お大切に」と訳されました。

本日読んだ聖書箇所において、サムエルの生きた時代、エリのもとに仕えるサムエルは「聞くこと」に専心していつも応答しています。サムエル(彼の名は神といわれるという意味)は幼くして神の声を聞いた僕です。元々サムエルの両親は、老練な祭司エリから学ばせようと神殿のエリのもとに遣わしていたのです。

あるとき、神の声が
「サムエルよ!」
と呼びかけます。
サムエルは眠っているエリを起こして
「はい、ここにおります。」と言い続けます。
しかし、エリは帰りなさいと薦めます。
サムエルはエリの言葉に向き合いつつ、聖所に戻らせます。

この三回の呼び出しは、私たちの信仰生活とも密接に絡んでいます。
神殿にて、神様の声を聞いたサムエルは
「お呼びでしょうか?」
とエリのもとを訪ねます。

如何に現実化させるか?
信仰とは、人間の客観性、つまり人間の客観的認識によって、で神を知ることではなく、むしろ、人間が、神様の御旨によって知らされることです。
エリの下で神様を知ることではなく、私と神様との一対一で、呼びかけに私が応えることです。
清心学園理事長の渡辺和子さんはミヒャエル・エンデの「ネバー・エンディング・ストーリー」を紹介しながら、神の声をどうやって現実へ向かわせるかの秘訣を示されています。

何度訪ねても期待通りでないサムエルですが、そのたびにエリの指導を受けようとします。しかし三回エリがサムエルに戻るようにと促しつつ、今度呼びかけがあったら
「主をお話下さい」
と言いなさい、と促されます。

このエリの声は、私たちの信仰と現実が分離されないようにするためには、今を愛し自分が何をしようとしているかをじっと見つめることが大切であると語りかけているのです。
十字架のキリストが慰められるより、慰めることを、理解されるより理解することを、愛されるよりも愛することをすすんでするように、私たちが神に聴きあって生きることを勧めています。

愛は痛みを伴います。
サムエルを呼びかけた神もキリストを十字架にかけて、私たちのために地上の生活を支えてくださいました。
神の声を聴くことは、地上で、それぞれの現場に帰っても、単純に主の声に聞き続けることから私たちは送り出されます。
大切にして下さる主の声に聞きしたがいましょう。