2008年 7月13日礼拝説教要旨

マタイによる福音書 5章13〜16節

「キリスト者の純潔性」
 細井茂徳牧師



      今朝の聖書箇所で主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われます。私どもキリスト者は、この世界、こ の世の中において「塩」であり「光」である、とそういうのです。この隠喩は、私どもキリスト者が世に与える影響について 述べられています。この世に対して、この社会に対して、価値ある貴重なものであることを言い表しているのです。この世に しっかりとした味をつけ、また、この世の腐敗を防ぐ。また、光として輝き、この世を、この社会を明るく照らす。そんな働 きを私たちがするのです。主イエスが、そう宣言してくださっているのです。私たちがどう思うかは問題ではないのです。主 は、私どもに「あなたがたは地の塩になりなさい」、「そのようにありなさい」と勧めておられるのではない。主イエスは、 既にあなたがたは地の塩、世の光なのだ、と宣言しておられるのです。

 主イエスは、人々に尊敬されるような立派な行いをしている人に向けて、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われ たのではない。ここで言われている「あなたがた」とは、11〜12節の「あなたがた」を受けて語られているものです。つ まり、地の塩、世の光であると言われているあなたがたは、「ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられている(11節)」 あなたがたと同じ人びとのこと。この『山上の説教』を聞いている弟子たちのことです。主イエスは、ご自分に従ってきた人 々に向かって、このみ言葉を語っておられるのです。それは、今、この教会の礼拝に集っている私たちに対しても語りかけら れている、ということでもあります。

 しかし、主イエスは、と同時に、塩である者が、その味を、塩としての本質を失ってしまっては、何の役にも立たないこと の警告をしておられます。私どもキリスト者の世への働きの効力は、あくまでも暫定的・条件付きであることを明らかにして おられる。私どもが塩としての味を失ってしまっていては、世に対して何の役にも立たない。塩気をなくしてしまうとは、も ともとの、生まれつきの私たちに戻ってしまうということです。救われる前の私たちのこと、キリスト者としての純潔性を失 ってしまっているということです。

 私たちが、地の塩、世の光となる、つまり神様の前で役に立つものとなることができるのは、私たちのために十字架にかか って死んで下さり、復活して下さったまことの地の塩、まことの世の光であられる主イエス・キリストのもとで、その恵みに よって生かされる者となることにおいてであります。あの3〜12節までに示されている“八つの幸いに生きる歩み”に生か されていることにおいてであります。この与えられた塩味を、光を、失うことなく歩むために、まことの地の塩、世の光であ られる主イエス・キリストのみもとに、常に留まって離れない者でありたいと思います。