2008年 6月29日礼拝説教要旨

ローマ6:1〜14

「洗礼における恵み」
 細井茂徳牧師



古屋博規先生

 人間にとって最大の問題である罪。
罪はいつまでも、私どもの中心問題であり、救われた後も、それは絶えることのない問題であります。
今朝の聖書箇所の「恵みが増すように、罪の中にとどまるべきだろうか」という言葉も、やはり、形を変えた罪の問題と見ることができます。
「自分は長い間キリストを信じてきているが、実際の生活からいうと、キリスト者というにはおこがましい」、
そのように考えている信者の方は少なくないことと思います。口に出さないまでも、心にそう思っている人は、案外多いんだと思うのです。
私たちはバプテスマを受け、キリストの救いにあずかったけれども、まだ罪の思いを残している。
その罪の思いはとてもしぶといと思い込み、負けそうだと思うことがあるのであります。

 皮肉にも救われた後も罪との戦いは残っています。受洗後の「罪との戦い」というものがある。戦いがあるから、罪の奴隷になるな、罪に身をささげるな、自分の五体を罪にささげるな、義のための道具として神に献げよ、との戒めをいつも聞き続けなければならないのです。けれどもその戦いは、救われる前の罪の問題とは異なるものです。
パウロは、洗礼を受けた私どもがすでに罪からの解放されていることに疑いを挟んでいません。確信に満ちている。
「もはや罪の奴隷ではない。罪から解放されている。なぜか。それは主イエスが、私どもに先立って罪に対して、死に対して勝利してくださったからだ」
と言うのであります。
私どもは洗礼を受けることによって、すでにその恩恵に与っている、すでに罪との戦いに勝利している、そう宣言しているのであります。それはどういうことでありましょうか。

 譬えて言えば、病気になって入院したとします。治療を重ねてしばらくして、主治医が退院してもよいという。嬉しいと思う反面、まだ痛みが残っている。不安な気持ちになります。しかし、お医者さんが「われわれのすべき治療は終わりました。後はゆっくり自宅で静養してくだされば治ります」と言ってくれたのです。それを疑う必要などないはずなのです。もう自分はこの病に勝ったのだ、勝つ道はちゃんとお医者さんが備えてくれたのだ、後は自分が注意深く、その勝利の道をこつこつ、こつこつ歩き続けるだけなのだ。そう考えて、確信をもって治療を完成するために、なお戦えばそれでよいのです。パウロがここで言っている主イエス・キリストの勝利は、それと同じです。神さまが「すでに勝利したのだ。あとは完成に努めればそれでよい」、そう言って下さっている。こう言っては何ですけれども、お医者さんの治療よりも、キリストの勝利はもっと確かなものであります。私どもに、不安をいだくことのない確かさを与えてくれるものなのです。すでにキリストが戦って勝ってくださった。私どもは、ただキリストがすでに勝利しておられる確かさに自分があることを思い返せばそれでよいのです。
思い返しながら、あとは自宅で静養しつつ、治療の完成に励めばそれでいいのです。私どもの救いの完成のために必要なものなど他に何もないのです。