
ルカ5:1〜11 「主の招きに応えて」
古屋博規牧師
人間のジレンマとの直面と題して、ヘンリーナウエン(Henry Nowin)牧師は、
人は誰を責めることが出来るか?
と私たちに問いかけています。 もし人を責めることを止め、私たちのただ中で働かれている神の業を伝えるために専念したとしたら、人生は根本から改まるに違いありません。
だからといって、それで外見上が大きく変わりはしない。
すべての人間は、それぞれ死、落胆、裏切り、拒絶、貧困、別離、喪失など様々な悲劇をかかえて生きています。その殆どに、人は失望や絶望し、変える力を持っていません。
ただし、それらを他人を責める機会とするか、神の業を見る機会とするかの選択は、私たち如何にかかっています。 イエスは、自分を責めたり、他人を責めたりする責任転嫁での解決はお許しになりません。
イエスの目からすれば、たとえ最も悲惨な出来事でも、神の業が現れる機会となります。 漁師のペトロも、そんな生業に生きています。自分の経験を頼りに誰の判断でもなく、自分が魚と勝負する。
今日は天気が悪い、餌の食いが今一つなど漁師の経験で理由づけながら明日へとその経験を生かします。
自分の経験値で、この時、ここに投げたらと、自分の最高の網を投げて魚を獲ることも彼らの責任でした。 この日、ペトロは、夜通し漁をしても何も捕れないで網を洗っていると、群衆が主イェスの後を追ってガリラヤ湖の湖畔に集まって来ました。 主イェスは、漁師のペトロに、群衆が見えるところに、船を漕ぎ出すことを頼み、そこで、お話しをされました。 その時、主イェスは網を洗っていたペトロに、
「沖に漕ぎ出して網を下ろし漁をしなさい。」
と言われます。
彼は「先生」と言いながら、主イェスに
「夜通し漁をしても何も捕れなかった」
と状況説明をしたのち、「しかし、お言葉ですから」と自分の如何なる理由もすてて、(つまり、条件付けない、責任転嫁しないで)
「網を降ろしてみましょう」
と、主に決断しました。 ペトロは、ここで
第一に、自分の経験、経験値、学問、確信や、決心でもなく、むしろ、経験を先ず第一にして管理することからの脱却の姿勢を示しています。
第二に、今日の自然科学者をお手上げ状態にさせるほど、神の生きるところは、人の力の働かないことにあることを信じ、神の御言葉によって創造されている世界に生きようとします。
第三は、人を見ないで神を見る。群衆を見ないでイエスのみに従う漁師の姿がここにあります。今まで、他人に転嫁してきた人生から、主に委ねて生きることへと招かれました。
彼は、船が沈みそうになるほどの大漁に仲間の船にも応援を依頼し、船を一杯にします。
今までの空しい船底、洗い繕う網に満たされたものは、神にひれ伏す思いでした。
自分の罪深さに気が付いたペトロは、責めることでは何も解決しない。
深みに自分を沈めることによって、主が十字架の網で、全てを喜びに変えて下さったことに気づき、
主の弟子として、あらゆる人々の深みへと網を降ろす者になることを決意しました。![]()