
ルカ14:15〜24 「主の招きに従う」
古屋博規牧師
先月の第二日曜日は、母の日としてカーネーションを礼拝に捧げました。 旧約聖書出エジプト記20章21節に 「あなたの神、父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」 とあります。
主は、様々な時代に生きる私たちに、全てが関連していること、そしてそれが決して偶然でないことを示しながら、私たちに霊的に呼びかけられる御言葉に聴くことを求めています。 本日の聖書箇所において、主イェスは、私たちに回心への招きそのものやその政治的解釈を求めているのではありません。 私たちが、「回心に招かれる者」であることを絶え間なく悟らせ、心を神に向けて人生の豊かさを発見することへと、心を神に立ち返られています。
ところが、14章18、19、20節で、何度も繰り返し、悔い改めへの招きを受けた人々は、断りの言い訳を付け足して、土地を買った、牛を買った、下見に行かなければならないので行けません、といいました。
しかし、実は、買う前にもう下見は終わっているはずで、宴を断る理由にはなっていません。 すると、ついには結婚しましたと。とうとう誰も裁くことのできない新婚であるとまで表明して招きを断ります。 すると、主人はそのような断りを入れられない貧しい人や罪人をありったけ招きなさいと僕(しもべ)たちに訴えました。 ところで、画家ルオーは、作品の中に、どんな悲惨な状況の中にも子どもを登場させています。
彼らは背筋をシャンと伸ばしています。そして、子どもの傍らに両親がいます。子は親の愛によって育って生きます。 「子どもが生まれたその日から物がなくてもやっていけるように教えなければならない。今の子どもたちはやたらに贅沢をしたがる。行儀が悪いし、大きな顔をするし、目上の人を敬うことがない。親や先生が部室に入ってきても立ち上がって挨拶などしない。大人になったら一体どんな人間になることやら、考えただけでも恐ろしい。」 これは現代人の嘆きでしょうか。 そうでなく紀元前399年のソクラテスの言った言葉です。 宗教改革者ルターは、1518年のハイデルベルグの討論の中で、
「神の愛はその愛する対象を、見出すのではなく、創造するのである。人間の愛はその愛する対象によって、成立する。」と
言いました。 このように、神様の愛は、人間の愛とは質的に違い、その大きさは想像を超えています。
病人や罪人を招くために来られたイェス様は、人間の正しさよりも、弱い不敬虔な罪人、神の敵となった私たちのために、十字架で死んでくださり、大きな愛を示し、幼子のような私たちを神の招きに従わせて下さいました。![]()