
ルカ16:9〜13 「神の不正と人間の汚れ」
古屋博規牧師
わたしたちは、しばしば、自分は闇の中を歩いていると思うときがあります。
世界の食糧危機や公害による気象条件の変化など、自然がバランスを壊し、軋む音を聞けば聞くほど、見通しの暗さを感じずにはいられません。
しかし、こういう時代だからこそ、わたしたちために十字架を差し出して下さったイエスキリストのように、世の光としてのあり方が求められ、招かれているのではないでしょうか。 現代社会には様々な警鐘があります。
私利私欲の違法建築で倒壊した中国の小学校。日本の小学校では、教諭が生徒の男の子がいたずらをしたと暴力をふるい、胸にうそつきと欠いた張り紙を5分程度児童の前に見せながら、すわられせていた。
指導が暴力となるときはどちらが正しいか判断をあやまわせることがあります。 今日の聖句は、危機のときに人はいったい何が出来るのかを問います。
ずるがしこい管理人が自らの不正直さで数字をごまかしていました。この噂を聞いた主人は解雇を管理人に通告し、帳簿の提出を命じます。
解雇される直前に、管理人は主人から借りた人々借金の証文を書き改めてしまいます。 例えば、主人から借金をしている農夫に、主人から油100樽借りたと聞くと50に、次に、麦100石と聞くと80石にさせてしまうずるがしこさで主人の富を管理・減額します。
負債を課して、そのまま帳簿を返すのではなく、大切にしようと思う友の負債を出来る限り減額しようとします。
イエスはこの抜け目のないやり方を賞賛します。 なぜなら、この世の人々のほうが神を信じるものよりも、ずっと抜け目無く、不正の富を用いてでも友を作ることに長けているからです。
なぜ、主イェスはこの不正なことを勧めているか注意してみると、この管理人の帳簿の改ざんがほめられたのでも、他人と比較して自分のほうがましとするのでもありません。
まず胸を張って自分の悪さを人の前に公然と罪を露にする管理人の立場を擁護します。 なぜ、イエスはこの話を用いたのか、それは私たちの未来に対する備え、迫る危機に主の声を聴くものの姿を積極的にに示すためでした。
(特に富によって、不正直さ、貪欲さを背にして世俗に生きているものの姿です。)
管理人は、解雇される(終末)のときを前に、自分に何が出来るかを考えます。
物乞いが日雇い労働か、職を失っても、友人と仲良くできることは何か。
それは自分の与えられている職務期間の間に、友の重荷を少しでも減らし、解放することでした。
ずるがしこい悪党でありなかがら、窮地に陥ったときに機転を働かせて決然と行動したことをほめたのです。 私たちも、主の終末に生きる一人ひとりとなりましょう。![]()