
ヨハネ14:23〜27 「愛ある者の言葉」
古屋博規牧師
今日は、ペンテコステ聖霊降臨祭、つまり主イェスが復活して50日目、また旧約ではモーセがシナイ山で律法の授受がされた日です。
エジプトを出たモーセは悲嘆にくれ、また逃げ出していた主イェスの弟子達が迷う心を鎮めようとして、
「主のみたま くだりまし、わがこころ うごかして、よわき身を つよくなし、主を愛せしめたまえ。」(讃美歌183)
と祈っている時、一人一人の心に、愛の火が灯され、互いを愛する心に変えられたと言います。 小平霊園の当教会の墓石の正面に、「信仰・希望・愛」と刻まれています。(第一コリント13:13) ここで、私たちも、人間の思いを超えて働く神の愛に方向転換をしましょう。 ところで、グリム童話に「あかずきん」という物語があります。
狼は最初に、赤ずきんに、
「その前掛けの下に持っているものは?」
と聞いて、あかずきんが、おばあさんのお見舞いに行くこと、その家に行く道程も知っていたのに、赤ずきんを食べることに一所懸命でしたので、彼女の見舞いの気持ち、やさしい心、相手を自分の様に愛する心にも気付かなかったのでした。そして、オオカミは、おばあさんを食べ、さらに赤ずきんを食べても、その欲望は一時しか充足されず、最後には「しょんぼり」することになるのです。 主は、私たちを孤児とせず、一緒に住んで下さると約束されました。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」
「主イェスが、炎の舌となりその人の所に行く」。 ペンテコステとは、一人一人と一緒に住んでくださる神の配慮を示します。
ヨハネは、この世の言葉が、力無く、人間に属し、神の愛に属さない「この世」にあると、78回も強調するほどに、如何に私たちは俗世界と密着し、この世は悪の力に支配されているかを示します。 その力は主の十字架によって滅ぼされていたはずなのに、まるで菌が生えている様に、一端、神様に創造された思いが弱まると、まるで教会の外の力に救いがあるように、芽を出します。教会がこの世に呑み込まれ る時、この世は永久に神から離れてしまい、もう繋ぐことが出来ません。福音によらないものは永遠の刑罰が待っているだけなのです。信仰の厳しさがここにあります。 教会は、その恵みを頂く泉として交わりを維持する大切な受けての役割を持っています。キリストは神の教会を建てるために十字架にかかり死なれました。 私たちは一度教会員とされたら、自動的に天国の切符を手にしていると考えるのでなく、教会の外に救いなしと、一生を押し流されない様に心がけましょう。 聖霊は私たちに今一度、援助者、代弁者として、一人一人を息ある者として平和を与えて下さっています。それは、一夜に過ぎない平和ではありません。 人間と人間の対立や、神との不調和の中にも存在するのが平和です。 人間の理性が教師でなく、聖霊こそが教師であることを受けとめて、如何なる決断においても、聖霊を信頼することを確信し、暗闇を模索しない様に、神が十字架を通じた聖霊の息を吹き込んで下さったことを心にとめましょう。![]()