
ヨハネ15:26〜16:4 「真理の霊による証」
古屋博規牧師
主イェスは弟子達と最後の晩餐をされた時、翌日の十字架の緊迫感を示しながら、ぶどうの木と枝を弟子達にあてて、17節までで、「あなた方はその枝である。」と一体性を語った後に、18−25節までで、「憎む」と言う言葉をこの世に示しています。
イエスは、「私を会堂から追い出す者が皆、自分は神に奉仕していると言う時が来る。」と、イエスはこの世を指摘します。
この世とは、イエスの伝道の対象を指し、御霊を受け入れるには無能力で敵対者である群衆、下役、役人、ユダヤ人、ファリサイ人、祭司長、大祭司を指しています。 憎むというのは、この世のイエスに対する憎しみです。 イエスとその弟子達、すなわち、教会に対立する存在を意味します。イエスと弟子達とが愛で結ばれ、友と呼ばれれば呼ばれるほど、この世との対立は激しくなります。
もしイエスや教会が、この世に属していれば身内の様にして愛していたとしても、それは、取引の愛であり、友愛や、アガペーにはならないものです。
この世の力は、いつも分裂を繰り返しては崩壊し、主従関係であることを求めています。 ユダヤ人は、大義名分のもとに、自分たちを守るために出てもらうと迫害するのです。カトリック信者である遠藤周作夫人順子さんが、「日本人の心に届くキリスト」という講演をした折り、南有島の原城(はらじょう)に向かって見てみると、真ん中に南無妙法蓮華経を、両肩には天草の乱の両軍の戦没者の慰霊のための二本ののぼりが立てられていることを感心して話されました。
昔、カトリックでは、両軍の人のための追悼ミサをせず、自分の思っていることが正しく、それに反対する人は、別扱いしました。憎しみや怒りは、大きな破壊力としては有効であっても、建設する力とはなりません。
もし、私たちが革命の様にして、何かを勝ち取っても、憎しみや怒りの念からでたものであれば、最終的には滅びでしかありません。 以前、マルティン・ルーサー・キング牧師は、「汝の敵を愛せよ」という説教集を残されました。イエスの戒めの中で、一番難しいことが敵を愛することです。
現代人は、憎しみから憎しみへの道を旅して破壊と滅亡の旅路を歩んでいます。 キング牧師は、 「憎しみに憎しみをもってすることは、憎しみを一層増加するだけ。愛は敵を友に変えることの出来る唯一の力。敵意を取り除くことで、敵を取り除くことが出来る」と、 そして、ジョン・C・ライルという長老派の学者は、 「信仰に熱心であるということだけが、健全なキリスト者であることの証拠にはならないことを忘れないでいよう。すべての熱心が正しいとは限らない。それは知識抜きの熱心であるかもしれない。無知で熱心党である様な人ほど、有害な存在はない。」と 語ります。 聖書の中の、憎しみや怒りでなく、愛、喜び、希望で、「いつも喜べ 絶えず祈れ 全てのことに感謝」は同じ事を指しています。
ホーリネスの監督、中田重治も
「頭がかっかして瞬間湯沸かしのようになり、心は冷たく冷蔵庫になる。イライラ社会のただ中に、聖霊をもって熱き心と静かな頭脳を与えられて、教会・社会・世界へと出ていきましょう。」
と呼びかけています。 証とは殉教で、敵を愛し抜くために命がけになることです。互いに愛し合うことです。イエスの言葉と業を語ることです。
主イェスは、この世が彼らを拒絶する中で、予め、弟子達を元気づけ、励まし、ユダヤ人の迫害で気落ちしている憂鬱な気持ちを未然に防ぎ、躓かないようにと聖霊の証の約束を語ってくださいました。![]()