2008年 4月27日礼拝説教要旨

ヨハネ16:23b〜32

「喜びで満たされる」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

 人生は一人旅です。
生きること死ぬことは二人で決することではなく 一人一人が神と相対しています。
この世で、人は本当の心の支えを持たないと、独りぼっちであることをはかなんで短絡的になりますが、キリスト者はキリストに出会い この キリストに導かれ キリストと共に天国へと導かれる生涯を歩みます。

 23−24節
 弟子達にとってこれから何が起こるかは闇に閉ざされていて一寸先も見えない様な限界状況です。 イエスの逮捕と処刑を目前にしたこの世は 自らの勝利の確実性に笑みをうかべています。そのただ中でイエスは、自らの口で、必ず、 希望が満ち溢れることを語られています。イエスが目の前に見ていたものは 悲哀 苦悩 暗黒 絶望が厳然と存在していま す。主はその先を凝視します。

 この世の力は最も深い闇が一切を取り仕切っていた。
夜明けなどなく、考えられない時に、主は朝の到来を見通します。 私たちには絶望は絶望としか考えられない 苦悩は苦悩としか見えない 目が点になってそこに釘づけられている時、主は朝の到来を見通しています。
私たちには無力感や諦めの中で すべてを放棄しても、しかし、イエスは絶望や苦悩を「実体のないもの」として「骨抜きにし」「相対化」します。
どんなに恐ろしいこの世も イエスから見たら限界性や相対性をもったものとなるのです。
それはイエスの名によって祈る時、満ち溢れる喜びにつながります。

25〜32節
 全く八方ふさがりのように見える限界の状況にも、明日への希望、満ち溢れる喜びの約束と新しい可能性をもたらすことの証明として、イエスの名による働きが地上のすべての業を、喜びの明日に向かわせ目を開かせて下さるというエネルギーをここに記します。
 人間の生に決着をつけてキリストの愛によってのみ建てられる新しい教会へと導かれることは、「父なる神に求める」ことから始まります。
神と人とが純粋に対話できるのは、不安・不確実の中にあります。疑りすら持ちながら、聴いて下さる神に求める時、主イェスへの信仰の純粋性が確保されます。

全ての弱さを知り尽くしている主は、勝利を宣言します。
「・・・・しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と。
  確信に満ちた喜びに私たちを招いておられます。