2008年 4月13日礼拝説教要旨

ヨハネ15:1〜8

「キリストにつながるということ」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

キリストにつながるということは、言い換えれば、キリストから常に離れないということになります。
皆さんのなかで、車を運転していて、ガソリンタンクが空ですよ、というマークを知りつつ高速道路に上る人はまずいないでしょう。
ところが、信仰のことになると、どうもそうはいきません。
神様の見えない配慮でつないでくださっていることを見失い、自分の決断で切り盛りしてききたようにしている傲慢さに気がつかないのです。 これは丁度、自分の力で車を走らせているんだからガソリンなんか要らない、というほど愚かなことです。

榎本保郎先生は、
「主の御言葉を本当に読んで必ずつまづく、つまづかないのは2000年前に誰かに語られたとして、字面はそのままにして中身は自分に都合のいいように解釈しているからです。」
といっています。
聖書は第三者に宛てて書かれたように考えて、自分宛の手紙にとして受け取らないようにしてしまうと、そこに甘さが出てきます。罪の自覚が曖昧になっていきます。

聖書では人間の罪の大元は、アダムとイブと蛇の物語に象徴されているように、責任転嫁にあるとしています。
こうなったのはみんなお前が悪いから、俺たちには関係ない、と自分を正しくさせて、相手を悪く悪くしている。
神様から赦されているにもかかわらす、人を赦せないことはイエス・キリストにつながってい生きていないことにもなります。
こうなると、やがて疲れて顔つきも悪くなり、信仰もままならなくなります。喜びもありません。

ヨハネ福音書の15章7節は、
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、」
の箇所ですが、リビングバイブルでは、「私の命令に従うなら」と訳しています。
このように、神の戒めと祝福はセットです。 そこをわきまえないと、礼拝を守るのではなく、ケータリングや出前のように神に注文し、神に礼拝させてしまうということにすらなりかねないのではないのでしょうか?

トゥルナイゼンというドイツの牧師は、

「正しい祈りが起こるのは、従順ということからある。私たちがそれを欲しているかどうか、私たちが何を欲しているかが問われているのではない。主が私たちの前にある。そして祈ることを欲している。」

自分の気持ちでするかしないかではない。神につながるためには、
「自分の一番嫌いな人、困っている人に組んでいる人を前においてください。」

と述べています。

服従のない信頼はみせかけになる、神への愛は神への信頼と同義です。
信頼あるところに、服従が伴います。宗教は、もともとラテン語の"rekigare"からとられた言葉で、つなぐ、結び合わせる、という意味があります。
人間の力を超えた方が、わたしもあなたがらにつながっているという約束をしてくださった主イェス・キリストを信じていきましょう。