2008年 4月 6日礼拝説教要旨

マルコ16:1〜8

「良い羊飼いと羊」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

主イェスは、ご自分を良い羊飼いであるといわれました。
パレスチナは南にいくほど木や草が少なくなります。シナイ半島に近づくほど、木も草もより僅かになっていきます。そうなると、羊が自分で草を探し水を得ることは不可能です。ですから羊飼いが羊を導いて草や木のあるところで連れて行きます。
ここでいう良い羊飼いはただ主イェスだけです。

「わたしは、良い羊飼いである。」
この言葉は、主イェスが良い羊飼いたちの中の一人でなく、本当の唯一の良い羊飼いであることを示しています。
他と比較してから従うのではなく、安心して主イェスからだけ学びなさい、と勧めているのです。
その生涯で逃げ去らず、語るべきときを逸せず、行動すべきときに行動にでる、どんなに誠実な牧師がいたとしても、それだけでは彼は良い羊飼いではありません。

キング牧師が凶弾に倒れて40年がたちました。
彼をアメリカで偉大な牧師として讃えているのは、自分の教会が自分のものでなく、主イェスの共同体であることを知って、自分の命を捨てているからです。

羊飼いは、羊のために、その自由な意思で、羊を知ります。
羊は、本当に弱く、目もど近眼で、守るものがいなければ直ぐ獣の餌食となってしまうので、羊飼いは、自ら羊たちを大切に思い、かえって自分を低くします。 夜になると羊を囲いに入れたり洞窟の中に入れてその入り口で寝て門の代わりになって羊を守ります。

良い羊飼いは、牧する羊との間に信頼関係を作り出します。羊も私を知り、私は羊を知る、しかも、外面的形式的でなく、内的人格的に知ります。 他人の秘密を口外したりして秘密を暴露はしない。反対に他人のことを公言ししゃべることは雇われている者だから出来ることです。

良いか悪いかは、いざというときに最後まで責任を負えるか否かによります。 自分の命が惜しい雇われ人は羊を捨てて逃げてしまうのに、真の羊飼いは、自分の羊を守るために狼と戦い命を捨てます。

この「命を捨てる」が7〜18節までに5回繰り返し登場します。 これは、ヨハネ福音書の特徴で、あがないとして命を与えるということです。いらなくなったので、投げ捨てるというのではなく、身代金として払い、失われた者を買い戻すのです。

愛とは、表面的に一時的に優しくするのではなく、最後まで相手を見捨てない、いざというときに相手のために命を捨てることが出来るかどうかということにかかっています。 雇い人は自分の羊でないものは、見捨てます。
宣教の使命は、自分のことのように相手を配慮できるかにあり、主イェスはこの囲いにいない他の羊も導く宣教の使命を持っています。

主の声を羊飼いの声として聞くとき、私たちの隔てが取り去られ、互いを受け入れあう私へと主は変えてくださいます。
ただ一人の良い羊飼いに聞き従いましょう。