2008年 3月23日礼拝説教要旨

マルコ16:1〜8

「朝の光が差し込んで」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

イースターの朝、絶望に包まれても主の葬りに向かおうとしている女性達は、大きな絶望の徴である墓石について考えています。
「誰にお願いしようか、手助けがないと私たちは石を転がすことはできないのです。」と。
墓の外で泣き続ける女性達、そこはもうどの弟子達もいない世界です。

彼女たちは、誰でも良いから葬りのために手伝ってくれる方はいないか捜そうとしています。 ところが、墓に近づいてみると既に墓石は転がされていました。過去を振り返ろうとしている彼女たちに、天使は、まるでもう過去を振り返る必要はないと宣言されるように「捜している方はここにいない。」と宣言されたのです。 ヨハネ福音書には、詳しく「女よ、なぜ泣いているのか。」と説明されています。自分たちの目的が無くなり、またしても希望が取り去られたような状況に、朝の光が差し込んで「恐れることはない」と呼びかけてくださいました。今まで十字架から取り下ろされた主に早く葬りの備えをと思っていた婦人達には全くの違う声かけでした。

この墓前の問答は、「方向転換」が示されています。
私たちが復活の主に出会うということは、過去に向かおうとしてしまいがちな、私たちの信仰生活や交わりを断絶して、新しい未来に向けた命が始まることを示します。
今朝、私たちの主は甦ってくださいました。

聖書の中では、墓石のように重く心を閉ざしていた婦人たちが、いち早く主と出会おうと墓に引き返しました。
しかし重い墓石は転がされて、彼女達が取り除けようとしていた重い石も、暗い墓穴も、既に眼前に天使が現れ「恐れることはない」と心を照らされました。

「恐れ」とは、「死の支配」です。
「人生の失敗感」「罪責感に満ちた人生」、「無意味感」が形を変えて私たちを襲うとき、主は甦り私たちの前に永遠の命をお示しくださいます。 キリスト教は死の恐れを取り除き、信じる者が復活の力に触れて新しく生まれかわる、造り変えられることを、主の復活物語を通じて示します。

世々の教会はこのキリストの復活信仰を生命線として告白し続けました。教会はクリスマス行事よりも、このイースターを最初にお祝いしました。そして今に至るまで、この復活信仰によって、宣教が続けられています。 私たちも「今日主は甦られた」と互いに語り確信しあいましょう。