
ヨハネ12:20〜36 「永遠の命を結ぶために」
古屋博規牧師
ヨハネ福音書は、第12章から受難の記事に入ります。全巻の半分近くが受難に当てられています。 「どのように生きるか」は、「どのように死に赴くか」にかかって切り離せない関係です。 19章にいたる間、12章は過ぎ越しの祭りのざわめきの中で、弟子達を集めてイエスの目的の最後を示しています。
アンデレとフィリポとギリシャ人との出会いです。 イエスにお目にかかりたいと申し出るとフィリポはアンデレに話し、二人はイエスに話します。 イエスのことがギリシャ人にも知れ渡る機会になったことを知り、イエスはこれから何を話すかを決意するのです。そして、ギリシャ人にも弟子達にもその死に方を示します。 「光りあるうちに歩いて、暗闇に追いつかれないようにしなさい。暗闇の中を歩く者は自分がどこで行くのか分からない。」
と、イエスキリストの十字架のときの近いことを示し、緊張感があります。 現代はものすごいスピードの時代です。じっくり考えられないほどです。
そうした闇と背中合わせの時代の中でイエスは闇の子とをならないように救い主を見失わないように踏む外さないように34−36節で、 「父よ、私の父」と少なくとも110回以上も語り、地獄に落ちて失われたものは決して父なる神のほうに向こうとしない、ですから32節に引き寄せて、十字架によってあらゆる民 あらゆる言葉から、主を信じ、主の弟子とするために重荷を負っている人々に働きかけるのです。
主の激しい祈りも、最後は
「父よ、みなの栄光を現してください。」
と求めます。
すると、天から声が聞こえた。
「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
と地上で発する声にこたえます。
神の御名があがめられるために生きる人は、自分のあらゆる苦難を恐れません。主は苦難に勝って確実な勝利へと祈って進もうとされます。 永遠の命を結ぶために大切な光を集めるためにこの世の支配者、世が今こそ裁かれ栄光へと導かれます。
全てに滅びがあっても、私たちが神様の目的と継続性に参加している時、私たちの人生が意味を持ちます。
私たちの人生は未完成です。私たちのなすことが神の働きの一部に加えられて初めて、私たちの存在に、確かな始まりと満足できる終わりがあることを知ります。
一粒の麦の死とは何を意味するでしょう。一粒ののままであろうとし続けることを放棄することです。自分を放棄して決然と一つの目的のために自己犠牲にする態度がここでは「死」です。 イエスの言葉には激しい緊張感があります。麦の種の命は、そのままでなく、形を変え、自分に死に、本物になります。![]()