2008年 3月 2日礼拝説教要旨

列王記8:27〜30ペトロ1:3〜9

「神の力によって生きる」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

片山斎兄が天に召されたことを、残念ながら報告しなければなりません。
今年の初め、福音教会として110年に向かう白山教会の歴史の中で、会堂が戦災にて焼失して再建される前の1950年の教団年鑑は、役員の名前に片山斎兄のことを記していることを、去る1月の礼拝の中で報告したことがあります。その時、照れ笑いをされた片山兄のお顔が忘れられません。

60年前、聖書神学校が献堂式を迎え、福音主義に基づく伝道者育成に藤田昌直牧師が教授になりました。
コンセットハット(カマボコ型)の教会が献堂され増築、そして新たに再建が決議されて今日に至っています。 片山兄は、その歴史を最も継承している信徒でいらっしゃいました。今日まで主の証人として歩まれた生涯の基がこの礼拝にあることを心に止めてまいりましょう。

喜びは思いやりの中に隠されています。片山兄のお顔にはいつも笑顔がありました。
思いやりの中から出ていたものでしょう。英語の思いやり、コンパッションという言葉はもともと「共に苦しむ」という意味です。 他の人と共に苦しむということが、「喜び」をもたらすとは、普通ではとても考えられません。しかし、実際、苦しんでいる人と一緒にいたり、失意のうちにある人とただ共にいるだけで、あるいは困惑し、不安定感を味わっている友人と時を共に過ごすことで、私たちは深い喜びを味わうようになります。
それは、幸せや興奮、大きな満足ではありません。それは他の人のためにいる、人類という家族の中で兄弟姉妹と共に深く連帯して生きるという静かな喜びです。 たいてい、弱く砕かれ傷つきながら人は連帯します。しかし、それが私たちを喜びの中心にいざなう原動力になります。
片山兄は、自分のおかれていた病をおいてでも教会の働きを最優先しました。

私たちの人生には沈黙が必要です。しかし沈黙に一歩踏み込むと多くの内なる雑音に遭遇します。
あまりにも心の平安をかき乱すので、せわしい、心を惑わず生活のほうが沈黙よりもましに思えるほどです。
沈黙すると二つの雑音がすぐにやってきます。
欲望の雑音と怒りの雑音です。、
欲望は私たちの満たされない要求や怒り、未解決のままの関係を表しています。
この欲望と怒りは手に負えない多大なエネルギーを持っています。そのエネルギーが愛する事へと向けられるとき、私たち自身が変えられるばかりでなく私たちの欲望や怒りの犠牲になるかもしれない人々さえ変えられます。 不可能ではありません。
エフェソ4:26怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。清い手を上げてどこででも祈ることです。 ソロモンも私たちも騒がしい自分自身に慈しみ深くあるときに、そうするときに敵を友とすることが出来るでしょう。

愛をもって民に降りかかる苦しみの中に神の助けを願います。私たちの内にある原則です。

愛は親しみ、心の近さ、お互いに構えないでそのままの姿で生きられる深い安心感です。恐れから祈りや黙想、育てることとを産み出すことは出来ません。神は無条件の愛をもって私たちを愛されます。恐れから開放された私たちの愛を望んでいます。

この箇所は、エデンの園での過ごし方を注意深く指導しているところです。私たちが誘惑を受けやすいからです。
この世界は、確かに自然環境の厳しさについて思いつつも、神が確かに「良し」と宣言されたのです。
ここに、神様の語っていることと人の語っていることの違いがあります。
人は、ともすれば、自分を権威づけたり、情報をコントロールしたいり、恐怖心をいたずらに煽ったり、物事を正しく判断する力を消すことにやっきになります。

先月、細井牧師の就任式をした折り、皆さんに誓約の書面を差し上げました。次週お見えになる田園調布教会で用いておられる牧師就任式に式文を使わせて頂きました。 人の言葉が、主観的に、恣意的にならないために、手本が必要なように、私たちは神の世界の一員として生かされていることを認めなければなりません。
使徒言行録でペテロは、「神が良しとしたものとを穢れていると言ってはいけません。」と戒められましたが、これは、神様が、私たちをかけがえのない一員として用いて下さったことを抜きにして伝道はない、ということを意味しています。

この世は、サタンの支配下にあります。しかし、この世の「良さ」のゆえに、暗い世を積極的に生きる姿勢が生まれます。私たちは、すべてを「良し」とされた神の配慮の中にあることを大切に思うことが必要です。

創世記2章4〜25節は、神の創造物語の第二で、第一章の天地を造る神の業を著しているのに対し、第二では、主題を地と天としています。第二の創造物語の特徴は、神は何よりも人間の生活からはじめているという点です。ここには、神の生きる人間への洞察が示されています。野の木も草もないところを神は耕します。

神様は、後に荒地を耕すこととなる人間として、泉のわきあがる地でアダムを作られ、息を吹きかけられ、彼を生きた存在とされました。〜7節
8〜14節は、エデンの園で人が生きたものとされたことを示しています。「エデン」とは平原平野という意味と喜び、楽しみという意味があります。人間が罪を犯す前に供えられた場所です。 神が人間に供えられた場所で、人は罪を知らないで生きています。
エデンには4つの河が流れ、人間を導き、畑を耕させ、また守らせます。
神様は、ここにたった一つの禁止を命じられ、善悪を知る木からとって食べるなと言われました。
善悪を知る木とは、神の様に全知になろうとする試みです。神が人となることを通じて、人が人である限度を超えて神のようになろうとする試みを禁じています。 続く第3章で、人は神の前にたたずんでいます。ヘビは女に、神様は園のどの木からも食べるなと本当に言われましたか?と訊きます。

すると女は、神様の命令にはもともとなかった「触れるな」という言葉を付け加えます。ヘビは「食べなさい」と直接的には言わないで、「食べると神の様になる、さあどうするか?」と誘惑するのです。 すると、人は、惨めさ、弱さ、神の護りの世界に弱さを感じ、神の祝福に生きている人が神の不完全さを恐れていきました。そして、神と人の関係が分裂を来たしてしまったのです。

愛には恐れがない(Tヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します、なぜなら恐れは罰をともない、恐れる者は愛が全うさせていないからです。」)はずなのに、逆に恐れを持ちます。

C・S・ルイスは、「悪魔の手紙」において、悪魔は、私たちの人生の現在性を巧妙に忘れさせるために、未来をちょっと「語りながら巧妙に忘れさせるために、未来をちょっと語りながら私たちに現実を捨てさせ、神と共にあることを忘れさせ、そして信仰に綻びをもたらすものだ、と述べています。

私たちは、「今」を生きましょう。そして、未来、永遠を支配する神に一切を委ねましょう。