2008年 2月17日礼拝説教要旨
ヨハネによる福音書 9章1〜12節
「神の業が現われるため」
日本基督教団 田園調布教会 田村博牧師
主イエスは、生まれつき目の見えない人を見かけられた。その人を目指して出会われたのではなく、「通りすがりに」その人に目を留められたのである。
彼はその場所に座って物乞いをしていた(8節)。主イエスの周りにいた弟子たちは、主イエスが目を留められ(おそらく歩みを止められじっと彼を見つめられた)たとき、どのように感じたのであろうか。
あまり関わり合いたくない、早く先に進みたい、と感じていたかもしれない。しかし、主イエスは違った。主イエスは、その男がどのような人生を歩んでこられたか、またその男の両親がどのような気持ちで今日という日を迎えているか、そのすべてをご覧になっていた。本来喜ばしいはずの、新しい家族の誕生。普通、生まれて何日かは目がはっきり見えなくとも程なく目の前の風景、人物に反応するようになる。ところが何かおかしい。両親は心配して医者のところに駆け込んだことであろう。できる限りの努力をしたに違いない。しかし絶望的な言葉しか返ってこない。決して裕福と言えない環境で、彼の存在は、いつしかお荷物のように。人々の前に自らの身をさらして、人々の憐れみの中で日々の糧を得るしかなかった。その彼の人生すべてを、主イエスはご覧になったのである。
弟子たちには知る由も無かった。何が原因か、誰が悪いのか、と詮索するのが精一杯だった。
主イエスは、その男の目に、唾でこねた土を塗りシロアムの池に行って洗うようにおっしゃった。男は従った。そして癒されたのである。
土の塵が、何の役に立とうか、と誰もが思う。役に立たない、ただの土の塵さえも、主イエスが用いられるときにかけがえの無い役割を果たすものとなる。
彼は、主イエスの言葉に従った。そして神の業がその従順を通して現わされた。
主は今、私たち一人一人を通して「神の業が現われる」ことを願っておられる。