
使徒5:27〜32 「人間に従うよりも」
古屋博規牧師
本日は、去る12月9日目白教会にて按手を受けた細井茂徳牧師の就任式を礼拝にて致します。 本日与えられた御言葉は、伝道者として、主の弟子として記されているペトロの生涯の出来事を示しています。
「教会生活入門」を書かれた、静岡草深教会牧師であった辻宣道牧師は 教会生活入門の、「礼拝の内容」と題した題目で、 「礼拝をして真実に礼拝たらしめるのはかかって礼拝者一人ひとりである。彼が礼拝に何を求め、何を期待するかで、その礼拝の質はきまる。人の礼拝に求めるものが、人間的な喜び、満足、慰めだけである場合、礼拝そのものに失望がおこる。礼拝の主たる目的は神を拝むことにある。いかにして神を拝むか。教会は見えるかたちの「拝む対象」を持たない。もし、拝むものを形にすれば偶像となるからだ。教会は偶像崇拝を厳しく戒め、偶像崇拝に陥ることを極力避けてきた。偶像的である者さえ拒否してきた。」 と記しています。 礼拝とは、その真理内容を告げる「神の言葉でなる聖書」によって神を拝むということです。
カルヴァンは真理というものは二つの要素から成っていると言います。
ひとつは神を知ること、ひとつは人を知ることです。
神を知らせるために、真理は、イエスキリストにいたる道筋を教理として示し、暗闇を照らしています。
しかし、初代の教会はキリストの真理とは似てもにつかぬ偶像崇拝や即効的な効き目を宗教に求め、効力がないとよからぬことを考えて、キリストが罪を贖う救い主であることには関心を払いません。
キリスト教会が、今なお受けている責め苦とは、こうした即興的な宗教心に酔いしれていることです。 教理とは人の判断する理屈ではありません。理論でもありません。 キリストがいかにして私たちの贖い主でありたもうかという信仰の論理をしっかり確立することです。
パウロは、初代の教会に徹底したイエス・キリストの教えこそ、人間の理屈や言い分より徹底すべき事と指摘します。 神の与えたもうたキリストの十字架の救いの声、招かれた使徒による信仰の励まし、教会の牧師・信徒に対する神の呼びかけは、一人の牧者を召命に応じて誓約させ、教会員も誓約に応じるか否かを問いかけます。
救いと滅び!私たちはどちらに行くべきでしょう。
主の招く声が聞こえていますか?![]()