2008年 1月20日礼拝説教要旨

マタイ20:20〜53

「最後を大切にする主」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「この最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたい。」
わずか残り一時間の労働者と、一日中汗流して働いた人の賃金が同じ1デナリオンだったことに腹を立てて抗議をする人々にイエスが答えた言葉です。

「夜と霧」を書かれたユダヤ人精神分析医のV.フランクルは、第二次大戦中ナチスの強制収容所に収容された時、連行された仲間から、親衛隊の前では、割れたガラスででもいいから必ずひげを剃っておけ(ひげが伸びていると病人だと看做されてとガス室に送り込まれるから)と忠告され、そして最後まで諦めない様に言われます。

そのアウシュビッツでは正面ゲートに「労働は自由への道」と看板に掲げられていたけれども、これは、そこでは人間の価値が労働力をもってのみ計られていたことを示していました。
確かに労働力や生産性を中心に考えるなら、一日の労働と一時間の労働で同じ1デナリでは不公平と言われます。しかし、1デナリを一人の人が生きて行くのに必要なこととして読む時、主イェスは私たちを労働力として見たのでなく、「命」としてご覧になっていると言う事がわかります。最大の贅沢とは、命を中心に置いて生きる生き方です。

 日本では、2025年に平均寿命が、男性79.1才女性85.8才まで延びると言われています。現代では自分の年齢に八がけをして考えなさいと中村雄二郎という人は言いました。これで気分も前向きになるなら結構なことです。若さに固執し、老いをー臭い、汚い、暗いーの3kの中で否定的に受けとめる時勢の中で、主イェスは、教会は一番最後の人に、目を向けよと、主張しています。これは大切な事です。

かつて、俵 万智さんが、若き教師の頃、「青春という字の横棒の多いのがなぜか気になる」と詠みました。
確かに人間関係の横棒が多いことは、人間の信頼関係や信仰の始まりを盤石にはしません。
青春時代から成人へと向かうには、自分と絶対者、自分と神との関係をしっかりと結んでゆくことがあってはじめて、信仰的な意味でも成人となります。
それは十字架を負ってゆくことです。主を横棒にすると横暴となり、暴走を生み出します。回り続ける車軸に垂直に(良心の)ブレーキをかけられるのも、神を意識しているからです。 見ていなければ、と神を忘れると、神の働きを利かせなくします。主イェスは、私たちに「最後の一人を大切にする」者、絶望の中に希望を(神を忘れない)もたらす者となるように求めておられるのです。