2008年 1月13日礼拝説教要旨

Uコリント4:6〜10

「福音の覆いを取り除く」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

川越キングスガーデン施設長の児島康夫さんは、日ごろの生活の中で入所されれている人々の姿を紹介しています。
そこでの毎朝の礼拝は、30人ほどの近隣の牧師により行われます。
そのうちの最高齢80歳の柿内和郎牧師の時、彼は、Tコリントの手紙5:17(誰でもキリストにあるならその人は新しく造られた者)から、
「私たち一人ひとりが神様の者として受け入れられていること、そして新しく造られたものとして生きること。」
と話されました。 そのとき、いつもは3分と座っていられない入所者の方が、一番最前列で陣取って、説教団の前や後ろを言ったりきたりします。 最前列で熱心に説教を聴いていた方が渋い表情になり、信仰暦数十年の敬虔な方である藤本こうさんが我慢できないで叱りつけると、柿内牧師は「神様のものをけなしちゃだめ」と言われたそうです。
「信仰を頭で理解するのではなく魂で直接受け止めることをの大切さを教えたれた」と児島さんはこの話を紹介しています。

パウロは年齢不詳ですが、いつも前向きに生きている人です。
「後ろのものを忘れ、前に向かって体をのばして・・・」(フィリピ3:13)「いつもイエスの死を体にまとっています」、「四方から苦しめられても行き詰らず途方にくれても・・・・」と書かれている通りに。 パウロは、人は、神の作られた土の器として生かされていることを承知しているのです。 つまり人が、素焼きの土のように脆く、壊れやすく、苦しめられ、窮するのは、実は自分の器が狭く、折角神の計り知れない宝があっても、それを知らないがために、途方にくれ、詮方尽きる、ということです。

ゲーテは「人間は努力する限り、迷うものだ。」と言いました。人は、むしろ一生懸命に生きようとすると失敗に気づきます。
最近、NHKで「ちりとてちん」という連続テレビ小説が始まっています。実はこのドラマは、古典的な「とちり稽古」の手法を用いています。 かつて、落語家、柳家金語楼は「昔の芸人や役者は、とちりげいこをした。」つまり、このけいこは、舞台で失敗した時にどうするかというものですが、そういう稽古で精進したといいました。

人生という舞台で、私たちが失敗したときにどうか解決するか、とちりながらもその道を阻むことが起こって前進出来ない時も、神様は「はばむもの」を自分の十字架と負うように求めておられます。
イエスを認める事によってしか、弱さを(見栄、高慢、偽りetc)誇ることが出来ないのです。