2007年12月23日礼拝説教要旨

ルカ1:39〜56

「命を受け入れる」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「恐れるな、私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデでの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカ2章10節ー1節)の言葉は、天使が野宿をしている羊飼いに伝えた言葉です。

その前に、今日は、福音の要約としてのマリアの賛歌を私の胸にしたいという意味で、賛美歌21−271からこの題「喜びは胸に満ちて」を頂きました。

神の愛のご計画は、私たちの救い主とななられるひとり子を一番低いところに人として置かれることでした。
低い所とは、どんなところでしょう。それは、貧困と抑圧、戦火の中を生き抜く人々の中、そして何かと気ぜわしい12月を過ごす私たち、その慌しさの中で、クリスマスを迎える私たちの中にあるのです。

ラジオで「クリスマスの思い出は?」とある青年にきいたところ、「思い出なんて何もありません。」という答えでした。
クリスマスをお祭りの一つに考えしまうと、活気に満ち、エネルギーにあふれる歌声も一人の青年を動かすことも出来ないのです。

主は、力ある者を叱り、身分の低い者や飢えた者を解放させるのです。主が来られることを知らされたマリアのしたことは、一体何であったでしょう。
それは、主イエスについて語るということでした。悲惨の中にあっても、それはとても大きな喜びです。

では、なぜそうなったのでしょう。
それはマリヤが主イエスの名を口にしたことから始まります。
私たちがその人の名を口にしたり書いてみるだけで嬉しくなるものです。クリスマスを待ちかねているように耳を傾けるとき、私たちもその思いを集めるのです。そして、自分に起こった出来事を思い巡らすのです。

今から約2000年前、ローマ帝国の「最初の住民登録」(ルカ2:2)が行われ、「民全体」が登録のために自分の町に向かっていたそのとき、野宿で夜番の「羊飼いたいち」には住民登録の声がかからず、彼らはベツレヘム郊外の野に打ち捨てられていました。民の一人とは数えられず疎外されていた彼らには、寂しさ、悲しさが身にしみたことでしょう。

私たちも疎外感を感じることがあります。仲間外れにされたり軽んじられたり、後回しにされたりしたとき、人に遅れをとったり劣っているように感じられるとき、「愛されていない」「嫌われている」と感じるとき、また失敗したり、自分で自分を受けれることができないとき、そして神様が遠く感じられ「神に愛されていないのでは」「神に見放されているのでは」と感じるとき、私たちは疎外感に襲われ悲しくなります。

しかし、神様は御使いを通して、すばらしい喜びの知らせを語ってくださいました。
ルカ福音書で、マリアが行動に現したのは、後のヨハネを身籠っていたエリザベトを訪ねることでした。丘の多いユダヤの地で4日の道のりをかけて旅します。エリザベトはマリヤの挨拶で胎内の子、即ちヨハネ、が小躍りします。全ての婦人よりもさらに祝福されていることを示すようです。(42−45節)
マリヤはこれに続いて、賛歌を現しました。マリヤは最も信じがたい御告げに接しながら、それを受け入れて世界で最も美しいといわれる讃美をします。
マリヤは自分にとってこれからどうなるのか考えることよりも真っ先に神様のなさる世界に自らを委ねたのです。

人知れず疎外感を覚え、寂しくなったり、悲しくなったりする私たちに、「きょう」神様のすばらしい喜びの知らせが告げられています。
あなたのために、救い主イエスは、神様からご自身を私たちに差し出し、罪の赦しと永遠のいのち、慰めと力、平安を与えようとしてくださいます。今日の私たちのために、お生まれになりました。私たちの人生を切り開いてくださることを信じ、新たな思いで、イエス様に向き合い、新しき年を迎えていきましょう。