2007年12月 9日礼拝説教要旨
ルカ1:5〜25
「恥を取り去る慈しみ」
細井茂徳牧師
ザカリアとその妻エリサベトはアロンの家系、祭司の娘で、由緒正しい家柄です。その二人は「神の前に正しい人で、主
の掟と定めを全て守り、非のうちどころが」ありませんでした。にもかかわらず、彼らには子供がいませんでした。これは当
時の人々にとって、大きな矛盾でした。メシアを産みだすことになっている特権と義務を持っていたユダヤ人女性にとって、
「不妊」であるということは、最大の「恥」であり、それは隠れた罪に対する神の裁きと考えられていたからです。人々から
の無理解や猜疑の目と中傷に苦しみながら、二人はこれまで歩んできたのでありましょう。
しかし、エリサベトはこの現実を信仰をもって受け止めました。彼女は、夫ザカリヤの身に起きた出来事が、一体何を意
味するのか知る由もありません。ですが、彼女は、自分の身体に起きつつある変化を通じて、何事かが起きているのかを悟る
ことが出来ました。それは彼女の祈り以上の神の答であり、人類を救おうとされる神の救いの御業が、彼女たちを用いて開始
されていくことであったのです。自分の愛する我が子が、神の器として用いられるという、予想だにもしなかった栄誉と祝福
にあずけられていくこととなるのです。
今朝の聖書箇所を通して教えられますことは、ザカリアとエリサベトらがそのように苦しんだこと、その苦しみと苦難を
通らされることで、彼らが祈らされた、その切なる祈りが、神の救いの御業を紡ぎ出すこととなったということです。そして
彼らの苦しみから紡ぎ出されたこの祈りが、歴史を変える神の働きを起していくことになったということです。神は、その忠
実な僕をあえて苦しみの中に置くことで、彼らを祈りへと導かれ、そこでの涙の祈りこそが神の大きな御業を起していくこと
になるのです。神は、苦しみを通して、その僕たちを神の御業のためにお用いになり、しかもそれは彼らの思いを越えた恵み
をもたらすのです。エリサベトは自分が不妊であったことを含めて、それらの一切が神からのものであることを認め、神様を
信じました。その信仰は、恥と苦しみによって純化された信仰でもありました。エリサベトは、ヨハネを身に宿すという出来
事を通して、「神様が自分に目を留めて下さった。自分は神様に忘れられている者ではない。神様に目を留められ、愛されて
いる人間である」、そう実感したのです。神様のあわれみのまなざしに生きている自分を発見したのです。大切なことは、子
を授けられたか、そうでなかったかではなく、神様のあわれみのまなざしに生きている自分を発見したことにあります。「わ
たしの恥が取り去られた」とは、そういう意味です。
私たちも、その神の試みを通されることで、確かに「主は、こうして私の恥を取り去り、自分に目を留めて下さっている
」と告白することができるのであります。私たちに与えられている神様のまなざし、それは主イエス・キリストによる救いの
みわざです。