2007年11月18日礼拝説教要旨

マルコ2:1〜12

「下から招く方」
聖ヶ丘教会 山北宣久牧師



小石川白山教会が創立105周年をお迎えしたことは、一言で言えば、戦乱、争乱の中でも人が神に仕え、人と人とが、主の体なる神の礼拝を休まなかった歴史であろうと改めて思います。

今年の「み言葉と共に生きる」の教会標語にあらわされ、鏡に照らしてきた歴史です。

私たちは、他人は見えても自分は見えない中にあって、他人を指弾するには、三倍ぐらい検討しないといけない。丁度人を指差すときに、手は二本指は相手に向きますが、3本指は自分にと帰ってくる格好になります。 「なんだ、なんだ!」と指摘しても「聖書は鏡なり、おのが心を映してみるなり」なので、聖書と向き合いつつ、自分の姿はこれでいいのかと問い返すことになります。小石川白山教会は、このみ言葉に照らして歩んでこられたのです。

今日のこの聖句は、キリストはきっとびっくりされた箇所です。主が話をしていると突然屋根がバリバリとはがされた、しかしそれでも「やーね?」なんていわない。
彼ら4人はいかにしてこの病人を運ぶか、様々な事を考えていた。聖書の記述から彼らについて次のことが判ります。

先ず、彼らは屋根を剥ぎ取る技術を持っていた。
そして、主イエスの真ん中に運ぶ勘を持っていた。
彼らは、この技術、勘に加えて、人の家の屋根をはがしても後で弁償できる財力を持っていた。
彼らは勇気と決断をもっていた。
イエスの前に差し出そうと彼らは決断していた。

彼らは病人の床の四隅を抱えながら絶妙にイエスの前に運びます。みんなで一人をイエスの前に差し出すチームワークが必要です。4人が力を合わせて、みんなで一人を運ぶのです。
教会もみんなで一人を運び形成されてきました。信仰の薄いといわれたその時代、イエスは彼らの信仰を見て驚くのです。イエスはこの人たちの信仰を見て、驚くのです。(他人を)救わんがために(自分が)救われる。イエスは必要に応じて癒されたのです。彼らの信仰をみて、救われるのです。

教え(ティーチング)、宣べ伝え(プリーティング)、癒す(ヒーリング)するのです。一人を癒すことで、5人が癒されるのです。祈りあい、担い合い、共に癒されていくことが、あたかも鏡を見るように相互連携してなされます。
癒されるものは上に、癒すものは下にいるのです。努力、向上、進歩は上に向かう方向ですが、招く方は実は下にいるのです。別の箇所で、あのザアカイは木の上に立っていて、その木の下からイエス様は招かれます。下に立って、イエスはザアカイのことを理解(Understand)されます。十字架の死に至るまでもっとも低くおられたイエスは、下から招かれます。

6節は不思議な会話です。イエスが心の中で何を言ったいるかを見抜き、人々が喜んでいないことを見抜いて、なぜそんな考えを抱くのかと9節で答え、「罪が赦されたというのと、起きてこの床を担いで歩けというのとどっちがやさしく、どっちが難しいか?」と問われます。
一見、今まで中風で動けなかった体が動くことよりも、罪が赦されたといったほうが易しいと思えますが、イエスは罪が赦されるほうがもっと難しいと思っておられます。

罪という漢字は、四つに非ずと書きます、非行、非礼、非道、みんなきれぎれで切れ切れとなる悪霊の業を、イエスは聖霊の力で、religionと聖霊はもう一度私たちを結びます。

ある米国人宣教師が英会話を教える際に言っていたことですが、英語でもっとも難しいのが、forgiveness、即ち「罪の赦し」です。
主は私たちの罪のために十字架にかかって赦して下さいます。