2007年11月11日礼拝説教要旨

ルカ18:15〜17

「命を受け入れる」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

本日は幼児祝福式を行っています。
一番前の列には、イエス様が教えてくださったように、子供たちがご両親や身内の方々と共に来てくださいました。教会は、幼稚園のお友達、教会に集うお子様方を大切にいたします。
そして、主イエス様が求めておられることを、私たちもともに求めて参りましょう。

本田哲郎神父が訳された聖書では、本日の箇所は下のようになっています。

「子供のように低いところから立つ人を神は受け入れる。人々はイエスに抱いてもらおうと、乳飲み子までも連れてきた。それを見て弟子たちは彼らをとがめた。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて、こういった。子供たちは、私のところに来るのを放っておきなさい。妨げるな、神の国はこのような人たちのものなのだ。はっきり言っておく。神の国はこのような人たちのものなのだ。神の国を子供のように受けれいる人でない限り、だれも神の国に入れないのだ。」

自分を低くして子供のようになるというのは、見せかけの謙遜ではありません。礼拝に出席している私たちがもっとも神様の前に謙遜になるべきことを、主イエスは子供たちを一番前に来させてまで受け入れる心を示されることにって、示されたのです。

「子供を愛することの足りないのを自ら戒める前に、子供も真に尊ぶ心の浅いのをいつも恥とする。」
倉橋惣三さんという人が言いました。
これは先週の弟子たちが主イエスに、「何回赦したらよいのでしょうか?」と問いかけていることにつながります。子供も共にとは、子供の目線で主を見あげることから礼拝が始まるのであって、まかり間違っても、自分が偉そうに振る舞い、神の右に立って話をするようになってはいけないのです。

主イエスは、大勢の人たちを前にお話しすることよりも、小さな子供たちのほうに心を傾け、祝福を願っている子供たちや親御さんたちに目をとめています。

主イエス様も真剣に御顔を子供たちに向けて、「神の国はあなたたちのものです。」と宣言され、子供たちを抱き上げたのです。

一切を捨てて従っている弟子たちには、この子供たちは、何の訓練もあく、人の世話になって生きているだけに見えました。だから邪魔なのです。
しかし、訓練を受けることで与えられる「資格」よりももっと優れて、子供たちは「素直」なのです。 この子達を共に、私たちは同じ一線に立つことを、主イエスは、私たち大人にも求めておられます。 神様が与えて下さった命であることを、そしてそれをこの幼子を通じて下さったことを、私たちはここに集うご家族と共に、覚えて参りたいと存じます。