
マタイ5:38〜48 「復讐に燃えることなく」
古屋博規牧師
「目には目を歯には歯を」と言う言葉は、有名なハムラビ法典に示されている弾劾報復法ですが、これは一番単純に、互いに弁済するというのが基本です。
「損をしたなら、相手にも同じだけ損をさせなさい。」「やられたらやりかえす。」
これは、厳しい復讐の掟と思われています。 しかし、それは間違いで、人から害を加えられても、損失を被っても、復讐に歯止めが利かないようなことの無いように、目には目でもって損なわせても、それ以上は仕返しを禁じる。これが戒めの真意です。 しかし、主イェスはこの当然と思われる復讐の権利さえも放棄するように弟子達に命じました。右の頬を打たれたらもう一方を出せ。というのです。聖書を読み解く鍵は主イェスが私たちに開いて下さった十字架の愛の出来事に根ざすところにあります。 主イェスは聖書をどう読むかを当時の人々に示しつ、特に宗教的リーダーたちと論争をされ、人が律法のためにあるのではなく、律法は人のためにあると説きます。 主イェスは、律法の原点、律法の出発点を見定めて、それを「神を愛し隣人を愛する事である。」と言われました。
しかし、人はいつの間にかその原点を逸脱し、内実を伴わない形だけのものに留まってしまってはいないか、あちこちに梗塞や閉塞を起こして血の通わないような状況に陥ってはいないか、という指摘がなされています。 復讐ということは、現代のいじめです。いじめには、次の4段階が紹介されています。
1悪口を言う
2仲間はずれにする
3暴力を振るう
4脅す(金品を取り立て、要求しては生活を困らせる) 人はどんな痛みにも耐えられるが 軽蔑される事には耐えられないといいます。復讐は小さなことから始まり、次第にエスカレートします。近所同士の争い事も、日が重なると殺人へと向かう今日です。
この様な出来事を主イエスは、悲しく心を痛めて一方的に差別を受け、もがき苦しんでいる人々が身近におられます。 シスター渡辺和子さんは、 「人生の履歴書に、学歴 職歴という履歴だけでなく苦暦というものがあります。自分は人生の履歴書 学歴 職歴 苦歴がある。自分は生まれながらこういう苦しみを負ってきた。何月何日こういう苦しみを負ってきた。何日か ら 何日まで こういう人間関係の苦しみの日々を負ったということ、一生の終わりに人生の履歴をごらんになる方は、まず、私たちの苦歴に目を通し、ご苦労だったね、辛い人生を負ってこられたねと仰って下さる。」 と言われます。 神戸中央神学校で牧師となり、賀川豊彦から岡山ハンセン病療養所の伝道をすすめられた河野進先生は、「病まなければ」という詩に 病まなければ、ささげえないいのりがあり
病まなければ、信じ得ない奇跡があり
病まなければ、聞きえないみことばがあり
病まなければ、近づき得ない聖所があり
病まなければ、仰ぎえないみかおがあり
病まなければ、なお病まなければ 私は人間でさえもあり得ない。 とうたいました。 どうも私たちは、条件つきで自分を愛しているようです。
条件にかなっている間、つまり、ヘマをしない、皆に好かれている、自分でも惚れ惚れしている間は、自分を受け容れていますが、いったん条件からはみ出したときには、情容赦なく腹を立てます。
自分をやっかい者、邪魔者、よそ者扱いにしてしまうのです。これは自分を愛していることではありません。
自分を愛するというのは、条件抜きに、どんな自分でも価値あるものとして、大切にすることなのです。