2007年10月21日礼拝説教要旨

マルコ10:2〜9

「もはや別々ではなく」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「もはや別々ではなく」

私たちには、だれも踏み込んではいけない場所があります。
羊飼いであったモーセも、出エジプト3:5で「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」と神が言われたところから引き下がりました。
このことは、今の私たちのちょっとした判断、言動にも同じく当てはまります。

箴言12:18
「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。」

◆私たちの言葉は時に人を容赦なく傷つけるのです。特に身近な人に対して、例えば、夫にも妻にも辛辣な言葉を投げかけてはいませんか。わたしたちは身近な人に対して存在を否定するような言葉を語りかけていませんか。

◆聖書は、その様な私たちを癒す知恵を今日も与えています。
エルサレムへの旅の途中、イエスを試そうとしたファリサイ人は、悪意をもち、モーセの規定と称して、
「夫が妻に恥ずべき行為を発見したとき、離縁状を渡す事が聖書で赦されていますが、それは有効でしょうか。」
と問いかけます。
人々は、妻の気に入らないこと(不倫行為、声が大きい、果ては、料理を焦がした)というような広い範囲で理由を立てたら、何でも別れて良いとの解釈が間違いでないことを立証しようとしました。

すると、主イェスは、聖書を引用してお話しをされました。
天地創造の神は、人間を男と女とに造られた。それは私たちがそれぞれ同一の存在、言い換えれば単一民族、ではなく、互いに違う存在であり、そのことを尊重するということなのです。
神がその様に人間をお造りになる事で、違う者同士が一緒に生きるというところに、人間としての生き方があるということです。

◆もしも、私たち男同士、または女同士が結束して反目しあう状態、あるいは仲の良い者同士、考えや趣味が同じで話が合う者同士が固まって、それ以外の人たちをはじきとばしている状態にあったら、それは人間として生きているとは言えないのです。
何でも思い通りになると思ったファリサイ人も、イエスがその通り、だと言ってくれると思っていましたが、そうではありませんでした。

結婚式する男女は、あなたは順境のときも逆境の時も愛し敬い仕えて、ともに生涯を送る事を約束しますか?と尋ねられます。
はじめハイ!と言っていた彼らの仲も、ネコがトラになることもあるでしょう。それが、人生です。
神様のみ前で約束して好きだと言ったということは、もはや自分たちだけの私的なことではありません。

「もはや別々ではない」と神が、キリストを通じて、キリストにあって、命がけで一つに合わせられた、この境界線を、誰も無視出来ません。
私たちはこの境界線を踏み越えてはならないのです。