2007年 9月30日礼拝説教要旨
マタイによる福音書25章31〜46節
「わたしに何をなしたか」
細井茂徳伝道師
「わたしに何をなしたか」
今朝の聖書箇所のすぐ後、26章からは主イエスの十字架の物語が始まります。すなわち、この箇所は地上における主イエスの最後の説教であり、その結びであり、その総括であります。主が、これまでひたすら教えてこられたことの、その急所がどこであったかを、最も大切にすべき教えは何であったかを、私どもに教えてくださるという、そんなみ言葉であります。
いったい主イエスはここで、何を私どもに教えておられるのか? それは、結論から言えば「自分を愛するように隣人を愛する」という、あの主ご自身の戒めに尽きるのです。ここでの譬え話の表現で言えば、「最も小さい者」に気が付くということであります。
「最も小さい者」とは誰か。
主イエスは、10章40〜42節において、私どもキリスト者のことを「小さい者」と呼んではおられる。ここで意味されていることとは、「小ささ」は弱さ、惨めさを意味する。つまり、この小ささは神様の助けなくしては生きていかれない者、ということ。その人こそ正に小さい者であります。あの十字架を必要としている人こそ、小さな者なのです。ここにいる私たちだけじゃない、世の全ての人が小さい者であります。
主はこの譬え話で、キリストの到来を待つ者が、その信仰の中で行なう「愛の業」に目を留めておられる。実は、それこそが主の喜びたもうところであり、主の祝福を受けることとなったというのです。主が喜びたもうところ、それは主イエスの再臨を待ち望みつつ、その信仰の中でなされてゆく愛の業のことであります。言うまでもなく、私たちの愛の業が救いの条件とされているわけではないのです。主が目を留められておられるのは、本人が「まさかそんなことを」と思ってしまうような、気にも止めていなかった小さな小さな業のことです。良い行ないが救いの条件とされているのではなく、その愛の業は、正しい者であることの証しの業であり、しかも意識せずに行なっている信仰から出る良き「実」であるのです。
主イエスはまことに大きな賜物を、小さな私どもにお与えになりながら、ただ受けることだけに生きるのではなくて、むしろ、与えることに生きなさいと、教えているのです。主イエスが、私どもにお与えになったものの大きさを知る時、私どもは、ただその恵みを享受するだけで生きるのではなくて、傍らにいる仲間にすぐに気が付いて、「あなたにもこの主の憐れみがある、あなたもまた“小さな者”のひとりとして、主イエスに捕らえられている」、と言われずにはおれなくなる、教えてあげなくてはいられなくなるというのです。この主イエスの物語が、はっきり示しているのは、「自分を愛するように隣人を愛する」というあの主ご自身の戒めの意味に他ならないのです。私たちも主の再び来たりたもう希望を抱きつつ、主に喜ばれる信仰の歩みを続けてまいりたいと思います。