2007年 9月23日礼拝説教要旨

Uテモテ1:7〜10

「福音を恥とせず」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「福音を恥とせず」

この聖句は、諸教会に愛情をもって示された牧会書簡と呼ばれる手紙の一節です。

今日はモーク記念会のために、ここに多くの方々がお集まりです。かつての外国人宣教師たちも日本に来日し、日本語を学びながら、宣教に努めました。彼らは、イエス・キリストの死と復活は過去のことでなく、現実の中で生と死をともにしてくださっていることを信じ、そう宣べ伝えられました。

福音を伝えることは、教会が受けてきた福音の宣教をともに担うということです。
そこには、二つの意味があります。

第一には、祈るものであること。
私とちとイエスキリストの間の生き方において、私たちはいつも祈りの聖霊、神と対話する息の通い合いによって生かされ、人格的な関係となることができます。 反対に祈りに加わらないことは、神と隣人と自然との調和を阻むことにつながります。 教会でも祈り会を大切にします。
第一テモテ2:1
そこでまず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

第二は、聖書に親しむものであること。
私たちは聖書を通読することに倦み疲れないようにすべきです。聖書は、神が人間に果たされた救済の歴史をあらわしています。 そして、私たちは、聖書によってイエスキリストの救いへと導かれます。私たちの個々人の救いに、終わらない永遠の救いへと導かれれるのです。

ドイルの元大統領ワイツゼッカーの言葉の中に以下のようなものがあります。

罪責があろうがなかそううが、年をとっていようが若かろうが、われわれはすべて、この過去を引き受けなければなりません。この過去を清算することが大切なのではありません。 それはわれわれには不可能であります。過去を後から変更したり、なかったことにすることはできないからです。しかし、過去に対して目を閉じるものは、現在に対しても目を閉じるのであります。 かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとするものは、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうものなのです。

福音を恥とせず、福音を誇りとし、人間を根底から揺さぶり、目を覚まさせ、真に生きる道を示そうと、戦後の日本人に聖書を語り続けた宣教師。

キリストの十字架と復活を想起する中に、私たちのために命がけで向き合ってくださる、神の御手の業がそこにあることを信じ、共に歩みましょう。