2007年 9月16日礼拝説教要旨

マタイ6:25〜34

「成功への王道」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「成功への王道」

私たちに必要なことは、誘惑に遭わないようにいつも祈ることです、と主イエスは語ります。「私たちに必要な食べ物を今日も与えて下さい。」と言えばいいのです。 しかし、私たちは、今日もらえるのなら、明日ももらうほうがよい、出来るなら明後日にも、とお願いしがちです。ちょうど最近の北海道の賞味期限切れのチョコレートの事件では、お客との今日の出会いを忘れ、商品を明日までもたせようと日付をごまかすという消費者を無視する行動に走ってしまったのです。
私たちにとって、神様を無視した行動は、なんと私たちを空しくさせるのでしょう。

明日のことは考えなくても良いのではなく、好況でも神様を無視すると煩いに入ってしまう、ということです。 主イエスは、神を愛し、隣人を愛することこそが一番大切だとされています。ところが、今、私たちは明日のことで頭の中が一杯で、そして現在がおろそかになっています。 しかし、一日の苦労は一日で十分なのです。

例えば、明日を煩っている親がいます。今日、子供が呼びかけてもその目を見ない、話に耳を傾けようと顔を見ない、むしろ背中で聞こうとします。子供は話すのを止めず、やかて、家族間に亀裂が走ります。壊れた家族関係となります。

「天国からのメッセージ」を書かれた藤田牧師は「キリスト教的であっても聖書的でないならば、どのように敬虔そうであってもそれはむしろ悪である。なぜなら「キリストなしのキリスト教」になっているから」であると叱責され、続いて「私たちの教会は、この点において明確に聖書的教会であることを願い」キリストが一切において中心になり、私たちは自らの立場をはっきりと自覚することを望まれています。

私は、人々がもっと気軽に教会に集まるようになるためにはどうしたらいいだろうと考えています。そして、出来る限り教会の敷居をといわれるところを低くしようとします。それでも敷居は高いのです。

私たちは、私たちのために一切を投げ出されたキリストが、私たちがパラダイスにいるために、十字架にかかり、そして甦られらたことを「今日」大切にする必要があります。
Uコリント12:9には、
「すると主は「私の恵みはあなたに十分である、力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」といわれました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
とあります。
神の前に無力であることを知った時が一番強いのです。いわゆる「劣等感」も「弱音」も、実は自分を本当にゼロにすることにはなっておらず、むしろ実はそこで誰かを蹴落とす傲慢さが示されるものです。
人と人との比較ではなく、神様をいつも見上げていると、必ず煩いは無くなり、みな加えて与えられます。