2007年 9月 2日礼拝説教要旨

ルカ10:25〜37

「襲われた人の隣人」
 古屋博規牧師



古屋博規先生

「襲われた人の隣人」

本日の聖書箇所は、次週の太田先生の箇所と同じです。ですから、今日はその前段として準備をご一緒にしましょう。

小友先生の全体修養会では、知恵の書であるヨブ記 コヘレトの言葉から学びました。同じ知恵の書である箴言3:6に「常に主を覚 えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」とあります。十字架を大切にすることです。 いつでも何処でも主を大切にするのです。

今の時代は、夜道を歩いている女性が金品を奪われ、命を奪われるという、恐ろしい時代になりました。命を奪われた女性 の母親は、「私はこのことを忘れない」と言っていました。ここに象徴的に潜んでいるのは、人が隣人のものを我がものとしている傲慢さ です。低くなりきれないのです。

教会の中では、牧師も役員も信徒も一人の主のみ声に従うということにおいては、同じ立場です。しかし、一度、人が主の民であることを忘れると、いきなり隣人の上に人が立ち、隣人の人格も・生命も奪う、人間の皮をかぶったオオカミの様になってしまいます。 人の前に謙虚にといいつつ、牧師こそが一番強欲に気を付けないと、背中に人の目に冷たさを感じることになります。何かが足りず、隣人との空気も読めず、クッションもなくギスギスし、聖書の御言葉、聖書の中にある大切なものを失うのです。「襲われる」には、自然破壊、病魔などに突然襲われるものも指します。

余談ですが、先日、ホームレスの方が少しお金を貸してほしいとこの教会に来られました。「失業しているので(お金がない)」と理由を言われた方に、上野の森教会なら相談に乗ってくれるかもしれないとアドバイスすると、彼はその場所を持っている携帯ナビで捜します。自分の困っていることを、彼はナビで捜し、教会を訪ねようとする。彼こそは、守られていることを知っているのだ、と思ったものです。

私たちは、豊かさに与りながら、それをどの様にすべきか問われています。隣人になることを決意しなくとも、そのように導かれるのです。不思議と隣人とされるのです。どの様に援助するかは、私たちに難しい事でなく、隣人のものは隣人に、自分のものは自分にとして、神の支配に生きる人は、そのあり方を忘れません。

十戒には「殺してはならない」とあります。隣人のものを一切欲しが らないのです。そうすれば、自分が神様になりかわって、隣人を損なうこともありません。

新宿 高島屋そばの有名なドーナッツ屋には、日傘を貸してもらってでも並び続けて、客の列が絶えないと言われます。
何かを持ち、お金を持ち、土地を持つことが幸いではありません。欲望は、私たちが気が付かない内に全てを失せます。 そばにいたはずの家族すら、私たちは忘れます。だからこそ、主イエスは、私たちの隣人になって下さいます。