
マルコ7:31〜37 「差し入れられた指」
古屋博規牧師
「差し入れられた指」 ◆西宮香炉園教会の創設者で、長谷川初音という婦人牧師がいました。 長谷川先生は「ごまめの歯ぎしり」という本を出されました。ごまめとは、カタクチイワシの子供で、カルシウムが豊富な、世代を超えた栄養食ですが、親がカツオ釣の餌として用いられてきたこともあって、広辞苑では「ごまめのはぎしり」を「力のない者がいたずらにいきりたつこと」と説明しています。
いきり立って猪突猛進するものの、その成果はなく、他人に食われて最後を迎える「ごまめ(誰にも聞こえない者)」の歯ぎしり。誰にも聞こえないなら、世間的には、所詮この程度の存在です。
しかし、聖書の世界では、「話すことなく語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全知にあまねく、その言葉は世界の果てまでも及ぶ」ものもあるとされています。 ◆10大都市の異邦地域で言語障害で耳が聞こえず、舌が回らない男に、まさに「ごまめ」のようなこの男に、どの様にイエスが診断を下したか。
イエスは彼の両耳に指を差し入れ、唾でその舌に触れ、天を仰いでため息をつかれました。 彼の名も、キリストのもとに連れてきた人々についても、聖書は何も語っていません。 出会いは、実は離れたところにあります。イエスは離れたところに彼を連れてゆき、治療します。耳が聞こえない、言葉を聴いて覚えられないので、話が出来るようになるには大変な努力が要ります。話ができないと気持ちを伝えられない。相手の気持ちを受け止められない。
何も解らなかった人々は、主イエスに、「この人に、ただ手を置いてやってください。」と頼みます。
そして、人々は後に、「この方のなさったことは何もかも素晴らしかった。」というのです。 ◆今、八月から九月にバトンタッチされます。過ぎ去ったあらゆる困難、不安、苦しみは、「この方のなさったことは何もかも素晴らしかった。」と感謝する告白によって克服され、すべて感謝となります。全てを感謝して受け止めていきたいと思います。