2007年 8月 19日礼拝説教要旨
ルカ:14〜30
「人間を正される神」
古屋博規牧師
「人間を正される神」
◆ ドイツのイェルク・ツインク牧師は、『現代への祈り』という本を出された時
「一週間をかけて保養にでかけることよりも静寂の中で半時間ほどじっと耳をすませていることに多くの意義があり、ずっと大きな作用を及ぼします。空間を肌に感じ、鳥たちが魚たちの姿を見て移動し耳を傾けている時間だけは黙っていられる。耳を傾けることをやめると、外からも内からも騒音が起こり始めます。耳を傾ける人間だけがまわりの人々と一体になり、周りの世界と一つになる。私は黙っていたいのです。」
とその本の中の「黙ること」と題した祈りについて語っています。
また、冒頭の説明において、
「数年前から私は、すぐ目の前が海である小さな家で休暇を過ごすことにしています。
そこでは早朝から毎日のように、殆ど気がつかないくらいの微風が陸から海に向かって吹きます。このような静寂の中で、半時間ほどじっと耳を済ませていることは、一週間の保養にでかけるよりはずっと意義があり大きな作用を及ぼします。」
と語りかけるツインク牧師の思いは、今の私たちへの呼びかけでもあります。部屋にこもって悲しんでいる私、忙しさに埋没している私、教会から離れていることを気にかけなくなった私が、半時間でも主の前に立つことによって、私が新たにされる招きが主より与えられるのです。
◆ 主イエスが街道に入って気が付いたのは、人はいつか知らないうちに、自分を正しいと思わせるような位置に立ってしまっていることを知らないでいることでした。
ファイサイ派の人々、律法学者にとっては出来る限りのことをしたに過ぎないのですが、気がついてみると神から遠く離れているのでした。
彼は、自分が悪いことをしていないことを感謝し善行を報告します。彼の祈りは偽りではなく、義務以上のことをしているのに、神は彼の祈りを聴かれません。彼は自分の祈りには、赦しや助けへの嘆願がなく、自分を義人と思いこんで、徴税人のようでないことをと、罪人でないことで高慢になっていることに気が付きません。そうではなくて、神の前に誇るものを何も持ってはいけないのです。イエスは他人をさげすむ人に対して、「高ぶる者は下げられ、自ら謙る者は上げられる」、と言われます。
一方、徴税人は胸を打ちながら憐れんで下さい、と祈ります。評判が悪い徴税人たちですが、ただ恵みにすがる以外には救われる
余地の無きことを知って遠くに立っています。ファリサイ人は自らが既に義とされていると信じていますが、徴税人は既に遠く離れて、胸を打ちながら、彼は神にのみ信頼して自分の罪の赦しを嘆願し、神と面と向き合うのです。
「神様、罪人の私をおゆるし下さい。」と祈るこの人、イエスは、「義とされて家に帰ったのはこの人です。」と徴税人の側に立たれています。
◆神が共にいようとするところは、強さではなく、弱さです。あのモーセが、エジプト脱出のときイスラエルの民をエジプトから導き出す発端は、主の言葉によって、モーセの便りとする杖の先、蛇の尻尾を持つことでした。ヘビの頭を使うのではなく尻尾をつかませようとする神様の配慮は、まさに自分を弱い者として自分を差し出していく時、神様は高慢でない人の心に語りかけてくださいます。モーセの生き方、徴税人の生き方、キリストの生き方、そして私たちのあり方の基本は、罪人である私にキリストは、十字架と共に立つ私たちと、共に神はいつもそばにいて下さるということを知ることにあります。
私たちは強さを示さなければならない社会から一歩、半時間、退いて神の声を聴く徴税人の様に、礼拝に集う者でありたいと思います。
そして、主が、私のために言葉を用意して下さることに、目を瞠っていたいのです。
「主よ 私は あなたに近づいて来て頂く値打ちのない者です。けれどもたった一言、言葉をかけて下さい。そうすればわたしの魂は健康になります。」