2007年 8月12日礼拝説教要旨
ルカ19:41〜48
「祈りの家を築く」
古屋博規牧師
「祈りの家を築く」
若草教会の楠本史郎牧師は、知り合いの牧師が教会員が、牧師に「体調が悪いので教会に行けません。」というと、それは「あなたが信仰がないからだ。」と大胆に答えたと紹介しました。普段からその人のことを深く知り、信頼がなければ、このような叱責はとてもいえないものです。牧師の言葉に、その人は、信仰生活の乱れが体調に及んでいると悟った。主イエスも、エルサレムに入るや、神の平和を称えているはずなのに平和ではない、それは、あなたがたに平和の祈りがないからだ、と都にいる人々を叱責しました。
さて、戦後間もなく収容所から解放されたミスモーク宣教師は、石館守三兄宅にて当時の金井為一郎牧師、岡田吾作牧師と戦後間もない、戦争の痛手もまだ生々しい時代の立て直しを目指し、聖書神学校創立に関する第一回の会合を行いました。まさに祈りの家を築くのでした。戦後62年、間もなく敗戦を記念する日を迎える私たち、神さまの平和と調和のリズムは乱れていないでしょうか。いつも確信をもって神に向き合うことが如何に大切かをこの聖句は問いかけています。
新原牧師と同期の浅野牧師は、白山教会着任後1年4ヶ月で昇天されますが、神学校自体から祈りの人として、いつもリズムを整えていました。同窓生を見るや否や、その場所で祈りが始まります。だれかれが見ているにいないに関係なく祈ります。白山教会就任後も祈りを続けます。教会になくてはならないのは祈りの呼吸であることを、浅野牧師は第一に示しておられました。私たちが息を止めたら死んでしまうように、祈りをやめたら教会が世俗的に変わり果てることを主イエスは警戒します。
エルサレムに入場して神殿を見た主イエスの心象風景も察するに余りあるものです。弟子たちの歓喜とは対照的にイエスは泣くのです。泣くは深い悲しみと嘆きで、エルサレムは、語源のエールサラーム、神の平和を表します。つまり、平和の都が平和に関わっていない、そして神の和解に無関心でした。「あなたがた」と12回も繰り返し、神様と私という呼び交わす関係がなければ、裁きを迎えると警告します。
神様を信じるということは、祈りができるようになるということです。息をするように、呼気・吸気のようにすることです。ある祈祷会に求道中の方が参加して、皆で祈りあう時、「あなたはまだ、祈れないから、無理にしなくともいいですよ。」とついつい神を試す言葉を語っているときがあります。「神様信じさせて下さい。」と言う祈りで十分なのです。
イエスは平和を求めて街道に入られます。敵を愛し、迫害する者のために祈れ、祈りなさいは友のために祈るのではなく、時に自分に相反する者のためにも祈ることとされます。