2007年7月29日礼拝説教要旨

マルコ8:31〜9:1

「生きがいを見出して」
 細井茂徳伝道師



「生きがいを見出して」

  主イエスが、今朝の聖書箇所において私たちに語りかけているのは、ただ殺されるのがいやだとか、もう死んでもいいやというようなところで測られるような命の尊さが、ここで問題なのではありません。主イエスは、私たちにまことの命、永遠の命を与えようと語りかけておられるのです。

  聖書を読むこと、祈りをすること、礼拝すること。思いに勝って、私たち自身が神様の目には高価なもの・尊いものとして捉えてくださっていることを、私たちはこれらにおいてこそ悟るのであります。えてして私たちは、自分流に、世界を手に入れようとして狂奔します。少しばかりの金を儲けることが自分の世界を手に入れることだとか、少しでもこの世界で良い地位を手に入れることが自分の魂の値打ちを上げることだ、と錯覚するのです。主イエスが測ってくださる命の尊さを量るに勝って、そのことの方が自分にさいわいを約束するのだと思い込むのです。私たちが陥りやすい過ちがそこにあるのです。実はここに描かれているペトロの愚かさ、彼が救い主イエスについて誤解し思い違いな期待をしているその愚かさがそれであります。主イエスが受難告知をなされ、それを聞いた「ペトロはイエスをわきへお連れし、いさめ始めた」と記されています。ペトロは、苦しみを受けて殺されるような道ではなく、もっと栄光ある、勝利の道、力に満ちた道を歩むことこそが救い主に相応しい道だと思っているのです。主イエスはそういう道を歩むべきだと考えているのです。

このことは、突き詰めてゆくと、自分もその栄光と勝利の道を歩みたいということです。言い換えれば、自分で自分の命を救うことができる者になりたいということです。ペトロがここで犯した過ちは、そのところで自分が主イエスの先に立ってしまったことです。彼の誤りは、救い主イエスが、あたかも自分の後ろから支えてくれるお方だ、と考えてしまっていたことであります。ここで主は、「もう一度、私の後ろに廻れ」とおっしゃるのです。それは、主の十字架の死による救いと、そこに示されている、神さまの恵みによってのみ与えられる命をこそ求めなさいということです。

主イエスの後ろにくっついて行く。実はそこにおいてこそ、私たちは本当に自分の命を得ることができる、まことの命、永遠のいのちを見出すことができるのです。神さまが、この私のために独り子の命という代価を払って下さった。私たちの命はそれほどまでに価高いものなのだということを知ることができるのです。そこには、自分で自分の命を救おうと思い、自分の命の尊さを自分で量ろうとしていくところには決して得ることができない喜び、感謝、平安があるのです。