2007年7月1日礼拝説教要旨
ルカ6:36〜42
「人を裁く前に」
古屋博規牧師
『人を裁く前に』
◆ なぜ裁くのか? なぜ軽んじるのか?
主イェス・キリストは、死者と生者、そして、万物を支配する絶対者の前で、人が人を裁いたりすることを戒めています。
また、慌てたりしても終末に備えは出来ないことを語りかけます。人を裁くことは、兄弟と同席しない、一緒に食べようとしないことなど、軽んじるということです。
裁きの場所は、キリストイエスを主と告白するところです。
◆ 信仰者は個々人で神の前に申し開き、告白をすべきです。自分の生活態度に応じて責任が問われています。
他人がどう判断するかでなく、まず自分自身の態度表明が問われています。
どんな戒めよりも大切なことは、隣人をあなた方自身として愛しなさいということです。
世界の審判者である神を愛するなら、あたかも自分自身が他人の主人であるような尺度で裁きをしてはいけない。でないと、神への徹底した従順を示す事にはなりません。
◆出エジプト 14:13−14は、エジプトを脱出する時、モーセに率いられた民の心の状況を知るモーセの言葉です。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と。
私たちのかかえる不安の心理状態は、焦りが生まれ、クリスチャンでも落ち着かなくなります。リバイバルの熱望も、中心が静まっていなければ熱狂主義、グノーシス主義となり、真の主の証を見ません。どういう危機でも揺るがない平安を頂きましょう。
どんな伝道者でもときには不安になり落ち込むことがあります。しかし、落ち込んだ時でも希望を捨てない、不安な時でも希望を失わないで落ち着いて今日ある主の救いを見なさい、主が戦ってくださることを忘れないで。と、呼びかけています。
◆主イェスは如何なる時も 先だって苦しんでいることを忘れないので、神様は奇跡的に良き業を果たされます。主のリバイバルが必ず起こるのです。
人には無力さをひしひしと感じるときがあります。
中村町教会の佐藤敏夫先生は、「人間は自分の責任でないのに否応なしに背負って行かなければならないことをそれぞれに持っています。一方では自由を持ち、他方ではどうにもならない掟を持つのです。そういうありのままの、今の自分を受け入れることを、肯定するということが大切なのです。」
学徒出陣でフィリピンに行った佐藤先生の尊敬するクリスチャン軍医は、無実であるにもかかわらず偽証によって死刑を宣告される。やがて大統領の特赦で帰国された彼は、裁判の様子を語ります。
戦犯裁判の中、もし死刑判決を受けても、わたしの問題は自分の足が震え13階段を登れない自分を、神が受け入れてくださるなら、人にどう見えようともそれはどうでもいいと。
神の大いなる肯定の下における自己の肯定こそが大切なのです。