2007年5月20日礼拝説教要旨

ヨハネ15:26−16:4

「真理の霊が来る時」
 古屋博規



「真理の霊が来る時」

 ヨハネ福音書は、この15章後半からこの世と弟子達との関係を明らかにします。
つまり、徹底してイエスは私たちの世俗性を嫌います。
この世からでたものは、いつも自分を大切にしているので、たとえ神の霊の注ぎがあるときも、きっと間に合っていると言わんばかりの、自分中心の評価に終わってしまう事を警戒すべきと指摘します。

◆自分が満足しないということは、神様の愛を拒みます。
それは徹底して、世俗化してしまっている姿です。
主はあながたがは、この世から離れていることを証するためには異邦人の中で証ししなさい。異邦人と同化してしまうなら、憎みなさいと勧めています。

◆憎しみのこの世は、イエスをどの様に愛するかが問われます。
主も世の人々を愛しますが、アガペーであって自己愛ではありません。
世にありつつ世に倣わないで世から離れる事、イエスを愛するために、この世に嫌われてでもキリスト者の原動力を発揮するためには、神の名を正当化してしまうような、自己中心から離れる事です。
 憎しみに憎しみをもってするのでなく。 愛と喜びを徹底して妥協させないような愛をいただくことが大切です。

 私たちは、聖霊をいただきます。それは、自分の中に邪念も、自己愛も自らを満たす事は出来ない事を知っているからです。
主が神のひとり子として、私たちに、聖霊をもって送られた真理の、本当に大切な事は、目に見えない事実を確認することを私たちが実行することなのです。
 ともすれば、独りよがりの解釈やイエスを脇に寄せてしまう私たちこそ、先ず神の国と神の義を求めて歩んで参りましょう。

◆教会の誕生日、教会が聖霊に包まれて一人一人を大切に用いようとしているこの時、主の御心がここに霊をもって来てくださっている戸口に今私たちも、立ち並んでいるのです。

 かつて、ローマカトリック教会は、対立構造の中で自分たちは正しいとスペイン、ポルトガルフランス、英国を敵視しました。
良心が麻痺して、一人を殺すこともためらいません。熱心は、その人の信仰をも正しいとは証明しません。
熱心は近代の最も悪質な偶像のひとつとは、カーライルの言葉です。

 使わした方が誰かを知っていることで、憎しみも迫害もおさまります。
危機感を煽って暴動させようとしている時代の中、主は着実に私たちを見続けて下さいます。