2007年 4月 29日礼拝説教要旨
マタイ10:26〜31
「恐れと共に生きる」
細井茂徳伝道師
「恐れと共に生きる」
ある方が聖書を調べて、「恐れる」という言葉を数えてみたところ、365回出てきたといいます。それほど聖書は、私たち人間が恐れを抱きやすい生き物であることを知っているのかもしれません。一日に一回は恐れを抱いている。私たちは、何かしら不安や恐れといった思いを抱きながら日々の生活を送っていることろがある。
本日の聖書箇所に出てくる主イエスの弟子たちも、またそのような恐れを抱きつつ歩んでいたのです。主イエスが弟子たちに向けて語られた言葉は、十二弟子たちがまだ福音の宣べ伝えられていない地へと遣わされるにあたって、語られた御言葉であります。迫害の予告がなされた(10:16−25)すぐ後、に語られた御言葉であります。さまざまな困難や逆境に見舞われ、頻繁に迫害を直面せざるを得なかった。それこできっと、主の弟子たちは恐れを抱きためらいつつ、出かけて行ったのだと思います。
そんな弟子たちに向けて主イエスはここで三度恐れるなとおっしゃった、人々に対する恐れ、難儀なことに対するおそれ、そしてもう一つ「死に対するおそれ」そして三度も繰り返される「恐れるな」と命じられている中で、ただ一度だけ「恐れなさい」と告げられています。三度の「おそれるな」といわれたことの根拠にこの「恐れなさい」から来ているというのです。神こそ真実に裁く力も持っておられるお方である、と同時にこの裁き主は、私たちの父であられる。その父なる神を恐れなさいというのです。
主は神を畏れることと福音を宣べ伝えることは密接な関係があるものとして語っておられます。それらは切り離して考えることができない、そう言わんとしているのです。私たちが神をおそれるといった場合、それは神様からの命令を引き受けることを伴うことであります。今朝の主エスの御言葉は、これは今まさにに十二弟子たちを世へと遣わす直前に語られたものです。そういった状況の中で神をおそれなさいと語られた。「私たちが遣わされていくこと」(16節)、「主イエスと私たちに語られたことを明るみで言い表すこと」、「屋根の上で言い広めること」(27節)、これらのことと「神を畏れる」ことは無関係ではないのです。
私たちは、周囲の人たちから否定的な評価を受けることに、あまりにも脆い存在です。傷つくことを恐れているのです。時として、私たちは人間関係の中で愛によって動く以上に、恐れによって動かされてしまっているところがある。しかし、もしも私たちの肉に命を守るために人々を恐れて、父なる神を畏れること、すなわちみ言葉を述べ伝えることを怠るならば、私たちの信仰の命、聖書がここで「魂」と呼んでいる「神の子としてのいのち」が押しつぶされてしまうことにもなるのです。
私たちは、「主を畏れる」という最も基本的な知恵を次の世代に伝えているものでありたいと思います。いのちよりも大切なものがあることを覚えて、そして神の子としてのいのちを押し潰してしまうことのないように日々の信仰生活を歩んでまいりたいと思います。