2000年5月7日礼拝説教要旨
ヨハネ10章11−16節
「声を聞き分ける」
古屋博規
去る4月30日、大勢の先生方・信徒の方々に囲まれる中、私の就任式が行なわれました。
まことに、本日の聖書箇所の如くに、良い羊飼いである主の御委託に励む僕でありたいとおもいます。
ゴールデンウィークに起こったバスジャック事件は、私たちの心を震撼とさせました。私自身も同じ17歳の子どもを持つ親として、心痛める事件であります。
「17歳?だって」と息子に語りかけ、「だからどうしたの?」との答えを返される、そんな会話をしつつニュースに見入りました。
17歳の青年が、自らの存在を確定ために、今、ここで生きていた人を殺す。彼は自分の存在をただ示すことのために流した血の大きさに気づいていません。
そしてまた、彼の母親は「声をかけても、息子を説得できません」と訴えているのです。
思い至りますに、現代社会の抱えている状況は、自分の悩みや苦しみの声に聞いてくれる人もなく、虐められている子が自らの命を絶たざるを得ないのと同じようなもので、つまり、他の声を聞き分ける事が難しい状況である、ということを主はご存じであると思います。
先週は牧師就任式を行って頂きました。まことに感謝でした。
就任に際して、何人かの牧師先生は、「今はどうか知らないが、小石川白山教会は、牧師を『大切にする』教会だから安心して行きなさい。」と断言下さいました。
一瞬、「今はわからない」という言葉にたじろぎつつも、私は、ここに一つのテーマを感じるのです。
すなわち、大切にする、愛するという意味は、命がけで生きてきた誰もが、牧師も信徒も、そこで一つの言葉をパンとして食べ、信徒それぞれが導かれるままに生きてきた歴史があってこそ言い出される言葉だからです。
私はいわば、この今に賭けてきたのだと感じました。
礼拝を通じて一年間、また一年間一つ一つ皆さんと恵みを数え上げたいと思います。
このように煩う世の中で、大切にして下さる主の呼びかけに、私は自らの生き方を向き合わせつつ、皆さんと共に「歩ませて下さい。」とひたすら求める次第です。
今日の本節は、「わたしは・・・である」という形式で語られる、主イェスキリストの決意が示されます。私こそ本当の羊飼いと言われています。
条件がいくつも述べられるのでなく、一つだけ「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と断言されているところに、主イェスキリストの全生涯が貫かれています。しかもこの命がけの生涯は、純粋に「羊のため」でありました。
どれほど外に向かってことをなしたかでなく、この羊の群のためになしている様を語られている、そして今日も、この小石川白山教会の羊のために命を賭けて闘っておられるのです。
パスカルは「信仰とは賭である」と言いました。これからの小石川白山教会の将来は、主の群として一つになることにかかっていることを、既に主は聞き分けておられます。
この世の羊飼いのいない状態は、時に雇われ人と何ら変わりない状態を作ります。そして、危険な時、自分の命と報酬のために入り込んだ狼は、必要な時が過ぎると逃げ去ります。
「逃げ去る」は、必要としているときに語れない、行動すべき時に動けないことです。
そこでは、信徒も、牧師も同じ秤にかけられます。しかし主は、十字架により私たちと共にいて下さいます。
主の「私は知り、羊も知っている」関係により互いの重荷が担い合えます。
良い羊飼いの声は、私たち共同体の中にある恐れや、自分のこととだけを考え、聞き従わないでいる行動を正し、また良い羊飼いは、忠実であろうと勤めつつもなかなかそうはなりえない一人一人の悩み苦しみの声を聞き分けて下さいます。