2000年4月9日礼拝説教要旨
マルコ10:35−45
「主の僕となるために」 古屋博規
主イェスは、受難予告を三度告げた後のお話である。苦しみは、弟子たちも理解できない。35−37、40節は、12弟子のヤコブとヨハネがイエスをメシヤとする、初代教会の直情的な信仰だ。41−45節は自分の十字架を担うはずが、先陣争いの場面である。しかし、苦しみの徴である杯を主は、担い、負いきれない重荷の身代金となる、と語っている。何という恵みだろう。私たちも、すぐ「はい」という。飾らない性格のゼベダイたちも来臨の際、栄光の入り口にと願い「はい」というが、それは苦難の入り口だった。神学校の入学式献身した一人一人も決意した、実に率直に「はい」と言う。ボンヘファーは、「善き力にわれ囲まれ」という讃美歌で、新しき年これから生きようとする人々にこう呼びかけている。「たとい主から差し出される杯は苦くても畏れず、感謝をこめて愛する手からうけよう、と」。まず純粋に出来ますと応え、その後、先を争うような日常でも、この世の喜び、人の思いを越えて平安が始まる、と、ここでも主は身代わりとして守ってくださる決意を聴くのである。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の
身代金として自分の命を献げるために来たのである。」