はじめに・・・過去に書いたエッセイを見なおすというのは恥ずかしいものですね。OCRで読みこんだものに少しだけ手直ししています。一応は直しましたが、変な漢字とか記号がでていたら、お知らせ下されば幸いです。
俳句についての断章2
1 反転するテクスト
よくいわれることですが、ある年齢、例えば学生の時、小説(俳句でも結構)を読んだときと、ある年齢に達してから同じ作品を読んだときでは、別の読みかたができてしまうということがあります。たとえば私の経験では、小学生の頃読んだ「銀河鉄道の夜」は、星を巡る旅の物語であり、大学に入って読んだときに「ほんとうのしあわせ」を探す物語に読めた。これは、べつにどちらが正しいとも、間違っているともいえない(これを云々するのは国文学者の領分だ)。要は面白く読める読み方が一番の読み方である.ならば、一個人の年齢や体験で変わってしまう「読み」を、方法化して、色々な面白い読み方をしてしまえばよい。そして、いろいろ面白がってしまえばよい。
注意したいのは、ここで、作者の作品に託した意図は、絶対ではなくなる、ということです。それは、読みの一つにすぎない。この瞬間、いままで〈作品〉といわれていたものが〈テクスト〉に化けることになります.したがって、テクストは必ず、様々な読み方が存在する文字の集合であり、作者の要求する読みに従う必要はない。尤も、このテクスト論をふまえて、戦略的に小説を書く作家もいますが、その作家の意図を越える読みができないかといえば、そんなことはない。このような、様々な読み方をするなかで、ある読みの地点に立ったとき、つまり、すべてつじつまがあうように読める読み方のなかの、一つの立場をとったとき、それは一つの枠組みをもちます(つじつまですね)。これが、読者の〈コード〉です。この〈コード〉は、実に様々なものが存在し得るものです。しかし同時に、「読者の〈コード〉」はその時々の文化の〈コード〉(例えば常識)の制約下にあります。まあ、要はここで、読みは一つに限定されないということが前提。先程の「銀河鉄道の夜」の例で言えば、仮に「星巡り」を表、「しあわせさがし」を裏とすると、はじめの時の読み方と後の時の読み方では表と裏が〈反転〉したことになります。つまり、はじめは「星巡り」をキイとする〈コード〉の読みを、次に「しあわせさがし」をキイとする〈コード〉の読みをとったことになるのです。つねにテクストは「反転」するのです。但し、ここで断っておかねばならないのは、先に「表と裏」と言ったことです。読みは一つではないし、二つでもない。幾つあるかは、学者と批評家の仕事として、可能性は複数。「表と裏」とすると、二つしかないみたいである。このようなとき、「地と図」という言い方をします(便利な言い方ですね)。これなら二項対立的勘違いを防げる。「地と図」は読みの〈コード〉によって反転してしまう性質があるのです。
2 だから何?
記号論をやっている人からすれば、な−んでそんなこといまさらー、と言われそうですが、ちと、気になることがあったのです。大急ぎで「テクスト」と「コード」について書きましたが、これを断ったうえで、「現代俳句」(平成7年3月号)に載った、第十入回現代俳句講座と題された寺井谷子氏の講演「言葉の海へ」をみてみたい。
この講演のなかで「記号やコードと詩性」と小見出しのついたくだりにおいて、氏は芝不器男の『不審男句集』の既にある以下の詩をひきます。
焔はえんえんと燃えあがり
水はれいろうと澄んでゐる
水はえんえんと燃えあがり
烙はれいろうと澄んでゐる
そして、先の二行を「『烙はえんえんと燃えあがり/水はれいろうと澄んでゐる』これは私達が認識しているコードです。」として後に「この四行詩の、コードの破壊によって、白皆の俳人と言われた芝不器男という人を、私達は、充分に感知します。」といわれる。さらに、「改めて、コードの破壊、詩に於けるコードの操作というのを考えた時、現在ぐちやぐちやと私が記号論の本を読んでいるのが、何だか少し馬鹿らしくなりました。/ここでは、コードをひっくり返した場合、新しい認識が生まれるのと一緒に、基のコードは消えたようでいて、二重靖造として働くということを意識すればよいと思います.」とされる。
氏の〈コード〉の定義は「言葉というのは、何かを認識するもの」とし「猫」があの「猫」を指す約束のこと、である(「現代俳句」(平成7年3月号)21頁)。ということは、その約束を破ることが氏の言う「コードの破壊」になるわけでしょう。これは一応間違ってはいない.問題は、読みがいつのまにか、「芝不器男という人を、私達は、充分に感知」するという、つまり、作者の意図(それを個性といいたければ、それでもいい)に収赦されていることです。しかしこれは、作者の意図を後追いすることで満足していた、従来の読みのスタイルであり、言い換えれば、記号論、テクスト論から根本的に批判される立場からの発言でしょう。もしそれを理解したうえで〈コード〉という用語をこのように使っているのなら、問題ありです。
さらに、「コードをひっくり返した」といささか唐突にいわれるのは、おそらく先の章で述べた、テクストが反転する性質を持つ、ということをふまえられての「ひっくり返す」ではないかと推測しますが、ならばなおさら、反転するテクストが作家の意図に収赦される読みになるのはおかしい。また、「地と図」で説明したよ、つに、〈コード〉は複数有り得るのであり、けつして「二重構造」ではない。つまり、〈コード〉の定義はあっているが、その土台になっている論理が矛盾している。しかし、こんなことは氏にかぎったことでなく、よくあることです。大事なことは、なんのために記号論、あるいはテクスト論が必要なのか、(つまり温泉で言えば効能ですね)である。
3 読むということ
そもそも〈読む〉ということは、既に書かれている「テクスト」の文字をただおいかけるのではなく、意味を生成していく行為です。その意味で生産的、能動的であり、作者の抜いた(意識的にも無意識的にも)穴を埋めていく作業も含まれる。それは、作者に強要されたパズルではない。読者の〈コード〉の選択で何通りもの意味生成があり得る世界です。ことに短詩型文学では、文字数が少ないぶん、端的にあらわれる。作者の意図を読み取ることが総てではない。例えば
百千も一つになりぬ虫の声
という俳句は「秋、一面の野原でなく虫の音が、まるでオーケストラのように、重なって聞こえるようだ。」という解釈と、「晩秋、一面の野原でないていた多くの虫の音が消え、かすかに一匹の虫の声が寂しく響いてくることだ。」という解釈は、どちらが正しいか、を考えてましょう。従来なら、大体、まず本人の自解をもとに、それがなければ作られた時期の作家の様子をもとに推測、そうでなければ、俸い先生の解釈をもとに(子規の鶏頭の句を思い出しましょう)する。これらはすべて、基本的に作者の意図をおいかけるものです。そうではなく、「一つになりぬ」を「音」の〈コード〉でよむのか、「数」の〈コード〉で読むのか、それによって二つの意味が生まれる。それが、文学的にどうかを、というと難しくなりますが、要は、どっちが面白いか、あるいは両方面白いか、また、ほかに読み方はないか、考えてみる。これが読むとい、つことなのです。作家の意図などどうでもよい。
でも、これって、考えてみると句会の時にはよくやってますよね。それが活字化されると、途端にまるで、これまでの小説を読むような態度が要求される。おかしいことです。先程「効能」といいましたけれど、この「作家の意図」という鎖を断ち切ることがそのひとつです。「作家と読者」は決して「生産者と消費者」の大系に繰り込まれていくものではない。
俳句は無数の〈コード〉による制作と読解の実験が短時間に可能なものであり、同時に、あらゆる既成の〈コード〉を切り崩すことの容易ではないジャンルなのである。つまり、前観であることがなかなかにやっかいだってことです。しかし、これは結論ではない。それから、先程2章で述べた〈コード)の問題について、さらにつっこんで説明するために、〈異化〉と〈コンテクスト〉という用語が次回登場する予定です。 (つづく)
付記・・・(つづく)と書いといて続けてないんです。はい、すいません。なお、「鬼」のほうでこの論を練り直して展開していくつもりです。
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