注記・・・原版をOCRで読み込んだもので、明らかな表現の誤りは直してあります。見落としたスキャンの誤りがあるかもしれません。
俳句についての断章
一、俳句を読む?
僕らの世代はTVドラマやTVドキュメンタリーを子供の頃からずっと見てきました。テレビというのは、自分の知らない世界をお茶の間で見せてくれるとても楽しい機械だから、夢中になって見てきたと思います。だから、行ったこともない沖縄の海を見たことがあるし、その海の汚れまで心配になったりする。つまり僕らは、テレビによって無意識のうちに様々な映像を擦り込まれている世代です。果たしてこのことが言葉の解釈にいかに関連しているのでしょうか。
五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村
を例にこれから考えてみたいと思います。
ところでこの句を読むとき(解釈ではありません)に思うのは、非常に映像的な俳句であるということで、それは、ひとつひとつの名詞の配列の妙によるかとおもえます。冒頭の「五月雨や」は梅雨の雨の降り具合を、強調表現「や」であらわし、同時に上の五音を引き締めている。「大河」に関しては、正岡子規が「「おほかは」と言へば水勢ぬるく「たいが」と言へば水勢急に感ぜられ」(「俳人蕪村」)る。つまりこれは〈漢語〉で強勢したものなのだ、という解釈をしている。このことから「五月雨や大河」で名詞による二度の強調がおこなわれていることがわかる。
そもそも中の七音は文節的にだいたい3・4音か4・3音の二段階に分けられる場合が多く、これが上の五音や下の七音とのからみに柔軟性を持たせる役を果たすのです。例えば
乾鮭と並ぶや壁の棕櫚箒 夏目漱石
は、上の五音「乾鮭と」を中の七音の内上4音「並ぶや」が受け、下3音「壁の」が下の五音「棕櫚箒」を修飾する。このように中の七音は例えば西東三鬼「水枕ガバリと寒い海がある」の「ガバリと寒い」のように上の五音や下の五音とそれぞれがはつきり関係を持つだけなく、中で割れる場合がある。そこで、この「大河を前に」はむしろ先の三鬼の句に近く、中七が下五「家二軒」へかかるとはいうものの、先に言った名詞による二度の強調として七音中、先の4音は上の五音と連関する。
何だかややこしくなつてしまいそうですが、要はこの句の冒頭の名詞の連続は強調効果を持つ、ということがいいたい。さらに「前」「家」「二軒」の名詞の統一連続が子規の言う〈漢語〉ではないにしろ、〈名詞の漢字の連続〉であることで強調効果がある。つまり、無駄なく名詞が配列されることで、名句になっている。
ところで、その「名詞」は、僕らの体験に準じてその理解内容が変化していく。例えば「海」はその南北でえらい差がある。だから活字の「海」はその理解に個人差ができる。なにせサンゴと流氷ではえらい差です。ここで最初に述べた、映像体験に介入の余地がでてくるわけです。言葉から脳裏に喚起される映像つまり〈心象風景〉は、現代では実体験に劣らず(もしかするとうわまわる?)テレビその他の映像によってつくられているといえるのではないか。そこで、「五月雨や」の句です。
二、「大河」とは?
「大河」ときいて、皆さんはどのような川を脳裏に浮かべるのでしょう.まさか「多摩川」ではありますまい。まあ実体験的にいうならば充分ありえます。しかし映像体験的に言えば、テレビでアマゾン川や長江をみたことのない人のほうが少ないでしょうから、やはりそちらに「大河」の座を譲らぎるをえない。極論するならば「五月雨や大河を前に家二軒」の「大河」はアマゾン川や長江である。
そんなことはない、といわれそうです。そのとおり。そんなことはない。それは、この句が日本の句にしたものだから、という予備知識による軌道修正が働くからです。しかし、これもへんなはなしで、江戸時代の日本の大河の景観を残している場所なんて何処にあるのでしょう。すべてコンクリ堤防付きの「大河」が正確にこの句の「大河」ではありえない。でも、僕らはこの名詞から心象に風景をおもい、その雄大さをほめたたえる。とするならば、これは映像モンタージュですね。状況によって修正しつつ、脳裏に合成風景を想像している。いいかえれば、この句の大河は、世界中のどこにもあり得ない、実体験と映像体験の合成の産物。ということになるわけですね。
しかしながら体験はその印象の強烈であるものにひきずられる傾向があります。これはいちいち例をあげるまでもない。自らの体験に照らせば、誰でもそう思うでしょう。とするならば、この句の名詞「大河」の喚起する映像イメージは、アマゾンや長江に代表される世界の大河なのです。たとえそれがアマゾンや長江という固有名詞に固定されない想像上の産物であるにしろ、一度映像で見た大河の強力なインパクトに心象風景が引きずられないわけがない。例えば玉三郎主演の映画『夜叉ケ池』で決壊する夜叉ケ池の流れは国産のどの淘流でもなくて、南米はパラナ川のイグアスの滝の景観でした。これはナイアガラよりもはるかに大きい。大インパクト映像であり、さらにはつねに滞流である。このような映像を見てしまった人は、まさにこういう風でないと、大河としてのインパクトを感じないまでになっているのではないでしょうか。つまり、これは映像体験の擦り込みなわけですね。
この映像体験の擦り込みを、この句全体に関して考えるならば、まず僕らは絵草紙ではなく、再現(?)として時代劇ドラマのなかや、各地の資料館にある旧家や遭物や人形によって、昔の人々の生活を映像によってある程度再現しています。それもいまとは違う装束によって映像としてのインパクトが充分あるでしょう。さらに先ほど述べたように、防波堤によって押しこめられた日本の川で、かつての川原の広さや氾濫原は想像するには難しい。なんらかの合成が頭のなかで行なわれている。そうすると、これを総合して考えるとどうなるかといえば、例えば僕らが思いを馳せる所の「五月雨や大河を前に家二軒」はスコールのごとき豪雨の降りつづくなか、世界的大河の濁流のまえの、河岸段丘にへばりついた貧相な萱ぶき屋根の家二軒の中や外で、田畑の心配や川の氾濫の心配をするまげ姿の農民の映像が頭に浮かぶ、ということになり、雄大な自然のいとなみとその前になすすべもない人間の様子がドラマティックに連想される。というぐあいになりますか、なんかへんですね。しかし日本であるという修正を頭のなかでしているにしろ、僕らの頭のなかでは、映像体験の擦り込みによってこのような映像合成が大なり小なり行なわれているのは確かです。僕らの「大河」は、心象風景としてはこのようなものということになるのではないでしょうか。
例えば、現代の学校教育現場で俳句を指導するときにとりおとしているのはこのような所ではないかと思いもします。僕の実感ですら、この十年で言葉から喚起される風景のイメージは映像も実景もどうしようもないくらいに変化している。中高生に、非常に映像イメージを喚起する俳句を、ただ想像しろ、ではちょっとつらいのではないでしょうか.先の例で言うならば、彼等の方が映像経験の比率が高く、日本的修正がきかない。それを考えずに指導は出来ない。護岸工事の進んでいない日本の河川を実感できるのは、せいぜい現在の中高年までである。このままではますます俳句は言語に対する古い映像イメージをもつ年寄のものでしかなくなってしまうのではないだろうか。心配です私は。
しかし、ひらきなおって、僕らの世代は、否応なく擦り込まれる様々な映像イメージを俳句をつくる場合において、上記のような例でもって、遊んでみでも良いのではないだろうか、と思います。その感覚がわからん者はもう過去の存在であると。句会という場はそのためにしつらえることが可能であり、得意であることだし。何しろこんなに自然風景が映像メディアでもてはやされるのは、この十年ほどのことらしい。いまのうち様々な自然映像を脳裏に刻むのは、悪いことではないかもしれません。それに、こんなメディアミックス言葉遊びは、小説は苦手のようであるらしいですから。
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